犀星と光太郎と無名の同人誌詩人(舟川栄次郎)について
ひたすら詩を表すことに生涯をかけた詩人のひとり、全国的にも殆ど無名に近い、戦前
から戦後のはじめにかけての北陸の詩人舟川栄次郎の詩的軌跡を振り返ってみたい。
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室生犀星が自らの著書で、生涯の好敵手であったという高村光太郎について、あらゆる面でかなわないものを感じていたと書いている(『『わが愛する詩人の伝記』)。あらゆる面という中には詩そのもの以外の事柄にも十分な比重が含まれている。たとえば、光太郎が芸術院会員を断ったことや、『中央公論』のような大雑誌には書きたくないと断りながら、名もない同人誌から頼まれた時はしっかり書いて、おまけに同人費まで為替にくんで送金していたという光太郎の詩人としての態度に、どこか偽善的なものを感じていたのかもしれない。
さらに、犀星はつぎのように書いている。
「光太郎は自分の原稿はたいがい自分で持参して、名もない雑誌をつくる人の家に徒歩で届けていた。紺の絣の筒袖姿にハカマをはいて、長身に風を切って、彼自身の詩の演出する勇ましい姿であった。」
ここには、詩人の風貌まで書いて、それとなく言動を非難しているように見える。けれど、内心では詩人として認めているからこその文章でもあるのだろう。
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さらに、室生犀星の前述の著書『わが愛する詩人の伝記』の高村光太郎のところでは。
「光太郎の死去の月に私はある雑誌から、小説「高村光太郎」をかくように頼まれたが私はあのひとのことを書くことは、あの人の潔癖をいぢくり廻すことになり、私は私で不倖なとしがおひもない小説をかくようになるからと言って引き退いた。あの人のことを小説に書いたら、碌なことをかかないことだらうという預測があった。私としては前例のない謙虚の気分で、巨星墜つという感じで敵手の詩を、小説に書く気はなかった。」
そう書きながらも、つぎのようにも紹介している。
「高村光太郎は明治十六年三月東京下谷区で生まれた。私とは、六つ年上である。
東京美術学校彫刻科卒業(略)三十九年三月から四十三年まで外遊、ニューヨーク、パリに滞在人の話では借りたアトリエにとじこもり碌々外にでなかったこともあったさうだ。
処女詩集『道程』は白山町の叙情詩社から刊行、この貧しい出版屋に殆どただで発行さしたのも、高村光太郎らしい無名の出版所を選んだわけである。久しい間その詩集は『道
程』一冊しか発行していない。後に『智恵子抄』『智恵子抄其後』を刊行、ヒューマニズムまたは、モラリストとしての詩風をしめす。」
そして犀星は、さらに、「昭和十六年太平洋戦争にはいると、光太郎はそのころ詩人がみんなしたように、かれも御国のための詩を作り、ひとつの流行詩の表面にうかんでいた。純潔とお人好しをうまくつり上げられたのである。戦争がおわると急に自分がいやになり、「暗愚小傳」を書いて反省した。これが数少ない生涯のツマヅキだったのだ。」
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このような紹介の仕方にも犀星のどこか意地の悪さがめだつようだが、一見親切でない
書き方が、犀星のある親愛の示し方だったのかも知れないと思えば許せる気がするだろ
う。当時は、ありふれた通俗的な言動も含めて高村光太郎の詩に、その詩人としての振る舞いに、心酔し、私淑した若い詩人たちが多かったということ。まさに若い舟川栄次郎もそのひとりであったようだ。
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舟川栄次郎は昭和六年九月に第一詩集『戸籍簿の社会』を上梓。その第一詩集を抱え
て、かねてから私淑していた高村光太郎を訪ねて上京したという。しかし光太郎はなぜ
か、寄せ付けなかったという。
その理由の前に、表題作「戸籍簿の社会」を写してみよう。
戸籍簿に一列に連なっている人の名
おびただしい人 人
戸籍簿の一家族 戸籍簿の部落
離婚されて他へ行っても
やはり前の家のことが思ひ出されるだろ
戸籍簿にかう名が残っている
子供にいたるまで個をみとめているやうだ
一人一人に細い線がひかれてある
人達は一家族づつ少し間隔を置いてはつながっている
この東洋的ななつかしさ
そこここに散らばっている人達も
此処でいつも楽しく語るやうだ
ほぎやっと生まれた赤ん坊
十年前に死んだお祖母さん
その魂と魂が此処で相ふれる
だれも此処では資産を鼻にかけたり
権力をふりまく者がない
この正直でかざりけのない立派さ
このつながりの融和
戸籍簿の社会ー―
一列にならんでいる健康さうな顔 顔 顔
みんな仲よく足踏みをしているやうだ
頁がめくられるたびにみんなの跫音が聞こえてくるやうだ
―國勢調査にかかつた日― (全行)
こうして今、読んでもそれほど感動する詩とは言い難いような気がする。当時は
抒情詩が多く受け入られたということを考えると、家族のつながりという事がテーマ
として書かれている。戸籍簿に命のつながりを感じる。新鮮に見えたのだろうか。
舟川栄次郎は、高村光太郎に会って「地方での詩活動こそが、本来のありうべき姿だ」と諭されるのである。それ以来、舟川は生涯、高村光太郎の言葉をこころに、泊(現、朝日町)で、しっかり根を張って詩活動を展開したのだった。はっきり言って、光太郎は断ったのだ。せっかく上京して、光太郎のそばで勉強したかった舟川のせめてもの小さな野望はあっけなく消し飛んだともいえる。
ところで、高村光太郎の人道的な詩が、外聞を越えたフィクションとして受け止めるこ
とのない詩的状況のなかでは、光太郎という詩人を世間的に偶像化することが起きてしまうのは当然かもしれない。ここでは高村光太郎が主題ではないので、舟川がかかわりをもったことのみの、私が調べて分かる範囲で記すことにした。
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舟川栄次郎が後に同人誌仲間や地域の人々に大変慕われたという詩人像の外聞をつうじ
て思うことは、おおかた詩人として生まれてくる数少ない運命の人と、生涯を通じて詩人に近づこうと努力する圧倒的に多勢の中の人との違いなど、単なる星のめぐり合わせという一言で済ませられないものを感じる。それほど詩人が慕われるというのも不思議な感じがする。
ここで、わすれていた舟川の簡単な履歴を示しておこう。
舟川栄次郎(明治四十年年七月十日~昭和四一年十二月二七日)は、つまり一九〇七年に泊町(現、朝日町)生まれ、泊実業高校卒業(一九二五年)の後、泊図書館司書として従事しながら詩作を始める。
(高村光太郎の写真です)
だが舟川栄次郎の少年時代のことがまたくわからない。どんな少年だったのだろうか。
いまとなっては聴くすべもない。 (未完)
天蚕糸・詩人論 中原中也ノート①千葉寺での詩作など
中原中也が二度目の精神衰弱が起きるのは昭和十一年である。太宰治がバビナール中毒により東京武蔵野病因に収容されたのが同年の十月、その翌月の十一日に、溺愛していた文也が小児結核で急死。やっと築きかけた幸せな生活が崩れ去る。文也の遺体は中也が離さず、上京した母フクに説得されてやっと棺にいれたという。しかし元の生活は望むべきもなかったようだ。
彼は文也の死後、一日に何回ものその霊前に座ったが,口からしばしば「正行」の名が漏れるの家族 は聞いている。〈略〉弟亜郎への追悼と文也へのそれが二重写しになり,時空の混乱が生じたので ある。「御稜威を否定したのは悪かった」いいながら叩頭を繰り返すようになった(時代は天皇の権威の増大と、戦争に向かいつつあった)。そのために文也が死んだ、という自責が生まれる。
二階の座敷に座っていて,不意に手摺りすの庇屋根に白い蛇が出ている。文也を殺した奴だ、と いった。附近の人が葬式のやり方について,悪口を言うのが聞こえる。やがて玄関に巡査が入って きて足踏みする音が聞こえ出した。 (大岡昇平「在りし日の歌」)
ちなみに「正行」とは楠正成の長男、楠正行である。(南朝への忠義心から明治になって父と共に名誉回復し、戦後の教育勅語にも登場したという。) 中也が六歳の時死んだ次男の亜郎を追悼する詩を書いた時、この正行きの勅語を参考にしたという。
枝々の ?みあはすあたりかなしげに
空は私児らの亡霊にみち (「含羞」)
コバルト空に往交へば
野に
蒼白の
この小児 (「この小児」)
菜の花畑で眠ってゐるのは……
菜の花はたけでふかれてゐるのは……
赤ン坊ではないでせうか? (「春と赤ン坊」)」
それにしても中也の詩には死児や夭折のイメージであふれている。次男亜郎、三男恰三(二人とも結核で)という弟二人の死に愛児文也までと、中也の分身は夭折にとりつかれたようなものであった。翌年十二年の正月、上京していた母フクは、次男三男亡き後に頼るべき四男の思郎を上京させる。思郎にも兄の中也を慰めるすべはなかった。
*連載になると思いますが、時々の掲載になるようにおもいます。
寺山修司私論ー《歌の別れ》は何をつかんだか。
(一)
寺山修司が出現する一九五四年までの歌壇は、「沈滞を進化と勘違いするほどに長老が絶対権を持った部落であった。」と言う中井英夫が見いだした寺山修司の出現は「まさに青春の香気とはこれだといわんばかりにアフロディテめく奇蹟の生誕であった」といわしめている。それからの四十七才でこの世を去るまでは、まるで約束されたような病身でありながらの孤独のランナーとして、俳句、短歌、現代詩をはじめ、映画、演劇、ときに競馬、ボクシング、そして「天井桟敷」とあらゆる文化芸術を網羅するようにサブカルの世界もつきぬけていった一瞬の偉大な旋風であったといいかえてもいいだろうか。
十二、三歳で俳句を作りその後、短歌へとすすんだ寺山修司の才能の開花はそれを発掘したという中井英夫の力ばかりとはいえない気がしてくるだろう。
森駆けてきてほてりたるわが?をうずめんとするに紫陽花くらし
空豆の殻一せいに鳴る夕母につながる我のソネット
夏川に木皿しずめて洗いいし少女はすでにわが内に棲む
国土を蹴って駆けりしラクビー群のひとりのためにシャツを編む母
蛮声をあげて九月の森に入れりハイネのために学をあざむき
雲雀のすこしにじみそわがシャツに時経てもなおさみしき凱歌
失いし言葉かえさん青空のつめたき小鳥打ち落とすごと
わがカヌーさみしからずや幾たびも他人の夢を川ぎしとして
これらは高校生のころの作品だが、無心の美しさが心を打つ。同時に読者である私たちの少年時代をも仄かに照らす夢淡きランプである、と選者の中井英夫を賞賛させた投稿作品の一部である。この作品からは五月の風にはにかみながらも聡明で感受性豊かな少年の颯爽とした姿が確実にこのむねにとどく。いまにおもえば当時はパソコンなどのまだ無い時代、どのように溢れる思いの言葉をノートなどに書きつづっていたのだろうか。
これまで刊行された歌集は次のとおりである。
『われに五月を』 昭和三十二年一月・作品社刊。(短歌の外、詩、俳句等収録)
『空には本』 昭和三十三年六月・的場書房刊。(第一歌集)
『血と麦』 昭和三十七年七月・白玉書房刊。
『田園に死す』 昭和四十年八月・白玉書房刊。
『寺山修司全歌集』昭和四十六年一月・風土社・刊。(前期の作品すべてと、未完詩集 「テーブルの上の荒野』を収録)
いま、寺山修司の第一歌集『空には本』(五八年発行)を久しぶりにめくりながら発行の当時は気がつかなかったが、麦藁帽子がモチーフとなっている短歌には不思議とふるさとのにおいがした。
今でこそ「私」を仮装する寺山の手法を通して短歌を詠むことができるが、当時はその短歌に寺山の少年時代をにょにつな事実として読んでいた気がする。たぶん虚構によって触れる真実の深さを知るにはあまりにも稚拙な世界にとりまかれていたのかもしれない。
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
夏帽のへこみやしきを膝にのせてわが放浪はバスになじみき
わが夏をあこがれのみが駆け去れり麦藁帽子被りて眠る
麦藁帽子を野に忘れきし夏美ゆえ平らに胸に手をのせ眠る
列車にて遠く見ている向日葵は少年の振る帽子のごとし
ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駆けて帰らん
麦藁帽子が少年時代の郷愁を呼び込む世代はもう少ないだろう。戦後の少年たちもすっかり年齢をとったけれど、唄は永遠に年を取らないからだろうか、古い詩や小説の中へ引き戻されることがある。
堀辰雄の短編小説「麦藁帽子」(淡い恋の物語)や芥川龍之介の「麦わら帽子」(「侏儒の言葉」の文章)もあるが、一番心に残っているのは西条八十の「帽子」と立原道造の「麦藁帽子」がある。中でも西条八十の詩は角川映画『人間の証明』の重要なモチーフになっていて、その主題歌を歌ったジョー中山が一躍脚光をあびた。
母さん、ぼくのあの帽子どうしたでしょうね?
ええ、夏の碓氷から霧積(きりづみ)へゆくみちで、
渓谷へ落としたあの麦藁帽子ですよ。
母さん、あれは好きな帽子でしたよ
ぼくはあのときずいぶんくやしかった
だけどいきなり風がふいてきたもんだから、
(略)
母さん、本当にあの帽子どうなったんでせう?
そのとき傍に咲いていた車百合の花は、もう枯れちゃったですね
そして、秋には灰色の霧が丘をこめ
あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかもしれませんよ。
(略) ( 西条八十「帽子」)
主演は岡田茉莉子と松田優作であったが、後に松田優作の追悼のために歌ったジョー山中も二〇一一年八月には永眠、享年六四才であった。この映画は二〇〇一年には渡辺謙、二〇〇四年に竹野内豊によってそれぞれリメークされている。
寺山修司の歌集からの連想が〈非在のふるさと〉に思いを馳せることになる。
寺山修司は「私は一九三八年十二月十日に青森県の北海岸の小駅で生まれる。しかし戸籍上では翌三六年一月十日に生まれたことになっている。」(「汽笛」)と書いているが、信じていいかどうかわたしの疑いははれていない。この二つの誕生日をあちこちで書いていてどれが本当なのかわからない。そのうえくりかえし書きつづる「少年時代」を読むたびに当時はとまどっていたが、嘘も真実の一部だと思い知るまでもなく、またたくまに映画や演劇、「天井桟敷」など、寺山修司の疾風怒濤の時代の波にまかれていたのではないかと思う。寺山修司は新宿の「きーよ」(ジャズ喫茶)によく行っていたというが私は新宿でも「汀」が多かったので出合うことがなかった。残念な気がするが、いや、どこかで出合っているような気もしてくる。半世紀も前のこと、今更ながら有りもしないことがあったように思いかえされるのが、寺山修司なのかもしれない。こんな妄想もつい最近、ユーチューブで黒柳徹子との対談を(輝子の部屋)の偶然見たからであろうか。(笑わない寺山に黒柳徹子は寺山の笑った顔が可愛い、だからもっと笑いなさいよと、いわれた寺山がはにかみ笑っていた。ユーチューブでは映画『田園に死す』などが観ることもできるし、タモリの寺山修司の物まねも見ることが出来る。傑作である。)
寺山作品の魅力にとりつかれた若者がいまも大勢いる。
それはつねに弱いものや敗者に身を寄せる寺山の柔らかな感性が、自分を阻害させていると感じやすい青春期の若い人々の共感を呼ぶからか。「ほんとうの自分なんかありはしない。いくつも他人の言葉や遺伝子や情報の集合体でしかなく、仮面を付けて自分を演じつづけているだけなのだ。」と言う寺山の断言に、現実と仮想現実の境界さえあいまいなままで揺れている現代人の共鳴するところだろうか。寺山自身の辛い境涯をあえて虚構でしか語らぬ彼に畏敬に近い思いを抱くことになるのだ。
かつて詩人の谷川俊太郎は、寺山修司についてつぎのように書いた。
「寺山は、いろいろなものをもっている。東北なまりをもっている。四年間の病歴をもっている。六コのサイコロと三組のトランプをもっている。ネルソン・オルグレンの小説とラングストン・ヒューズの詩集をもっている。女についての無限の好奇心をもっている。人世についての無数の観念をもっている。野心と、人一倍旺盛な嫉妬心をもっている……。」
寺山修司は「目をつむるとあの日の夕焼けが浮かんでくる。私の町――それはもはや〈この世に存在しない町〉だ。サローヤンではないが男の経験の大部分は〈思い出のよくないことばかり〉なのだ。だが、ひどく曖昧になって、消えかかるものを、洗濯箱の一番下から古いシャツをひっぱり出すように―もう一度ひっぱりだしてみることも、また、私のたのしみの一つでもあるような気がする。」と書く。 「きえかかるものをひっぱりだす」といように過去をたどりはじめながら〈この世に存在しない町〉だけど思い出のにだけ存在する町はたしかにあったのだろう。夕焼けの町という美しい幻想の時間帯にはサーカスのジンタのもの哀しい音色に乗せて、少女の蛇人間や、一寸法師のピエロが呼び込む見世物小屋。暗闇の中で胸をときめかせたスクリーンの懐かしさは、少年寺山修司を夢中にさせた「この世に存在しない」もう一つの世界であった。
寺山修司は二十九歳の時生い立ちの悪夢を永い叙事詩にまとめた。{地獄変と題したこの作品は、ほぼ二年がかりで四千行を超えるものになって、短歌の部分だけはまとめ歌集「田園に死す」として出版。詩の部分は再度整理しこの仕事にのめり込むことになる。三十才の時には次のような詩を書いた。
血が冷たい鉄道ならば/はしり抜けてゆく汽車はいつかは心臓をとおることだろう。
同じ時代の誰かれが/血を穿つさびしいひびきをあとにして/私はクリフォード・
ブラウンの旅行案内の/最後のページをめくる男だ/私の心臓の荒野をめざして/
たったレコード一枚分の永いお別れもま/いいではにですか/自意識過剰な頭痛の霧
のなかをまっしぐらに/曲の名は Take the A-train/そうだA列車で行こう
それがだめだったらはしってゆこうよ
寺山修司が死の前年「朝日新聞」に発表した作品。珍しい出来事で詩の読者はこの事を待っていた。
昭和中年十二月十日
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかつて/完全な死体となるのである
そのときが来たら
ぼくは思いあたるだろう
青森市浦町橋本の
ちいさな陽あたりのいい家の庭で
外に向かって育ちすぎた桜の木が
内部から成長をはじめるときが来たことを
子供の頃、ぼくは/汽車の口まねが上手かった
ぼくは
世界の果てが
自分自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ (「懐かしの我が家」前編)
寺山修司が久しぶりに書いた詩であった。大方の人の目には新鮮に映ったものと思う。
寺山修司について何か書こうとするとどんどん遠くなっていくような気がする。すべては過去の出来事だから当然と言えば当然のことなのだろう。最後に、私の一番気に入っている短歌を引いてひとまずじることにすする。 「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや(祖国喪失)」 (了) I,tanaka
「日本海詩人」と詩人大村正次について(初めてのブログです)
井上靖や源氏鶏太など、若い頃の詩作のよりどころであった北陸の詩誌。「日本海詩人」の編集者であり詩人であった木村正次についての足跡を記しておきたい。
木村正次は、石動に住み、県立高岡中学(元高岡高校)の教諭であった。明治二十九年(一八九六)六月十五日(現富山市)生まれ。大正五年に富山師範学校を卒業し岩瀬小学校訓導としてスタート、本人の努力の結果のちに、高岡高女教諭に栄転。師範在学中の大正四年に室生犀星主宰の『卓上噴水』三号に鳳太郎のペンネームで、次のような誌を発表している。
金 蔵 鳳 太郎
暗い暗い真くら闇
ふくれあがった太鼓腹
ひとられるだけふとり
はち切れたとき
光をはなち
飛び出した金蔵
『卓上噴水』は室生犀星の発行(大正四年三月)で、金沢市千日町二、人魚詩社であった。同人には萩原朔太郎と村山暮鳥がくわわっている。この詩誌は四月号、五月号の三冊で廃刊となり、やがて次の詩誌『感情』に繋がっていく。
『卓上噴水』の創刊号は全アート紙四六晩、十六頁、表紙にはギリシャの壁画の写真がすりこんである。作品は、犀星の短詩が一編、朔太郎、暮鳥の詩がそれぞれ二編おさめられている。二号では犀星ら三同人の他に、高村光太郎、茅野粛々、日夏耿之助、前田夕暮多田不二ら八名が参加。暮鳥の詩編「だんす」も収まっている。この一作は、詩集『聖三稜玻璃』(大正4・12。人形詩社刊)に収録されている。三号には、蒲原有明らの寄稿もあって、十一名の執筆。鈴木しげ二、鳳太郎ら新人の作が掲載されている。木村正次の詩的出発は、犀星の目にとまり好運であったといえよう。
『日本海詩人』は、昭和三、四年をピークにやがて若手の宮崎健三、井上泰(靖)、久湊信一らが、詩誌『北冠』(昭和4年)を、中山輝らが『詩と民謡』(昭和5年)を、また方等みゆきらが『女人詩』 (昭和6年)をと、それぞれが続いて詩誌を創刊していく。
主幹であった『日本海詩人』はしだいにさきぼそりになって、ついに、昭和七年一月号を発刊後休刊し、事実上の廃刊に追い込まれた。当初の地方主義をかかげた詩人聯盟の機能も、ここにいたってまったく失なわれてしまったことになる。
創刊時の『日本海詩人』は、富山、石川、新潟、四県の詩人があつまり〝地方主義文学運動〟を宣言。
ここに参加した富山県関係の詩人の詩集を掲げておきたいとおもう。
・千石喜久『文明の宣布』’大正15年)
・藤森秀夫『紫水晶』(昭和2年)
・大村正次『春を呼ぶ朝』(昭和3年)
・久湊信一『藻の國』(昭和4年)
・藤森秀夫『稲』{昭和4年)
・山岸曙光子『提灯柿』(昭和4年)
・中山輝『石』(昭和5年)
・瀬尾正潤『悪魔になろうか』(昭和6年)
・埴野吉郎『緑の尖兵』(昭和7年)
・松原与四郎『あゆの風』(昭和7年)
・くらたゆかり『きりのはな』(昭和9年)
・方等みゆき『しんでれら』(昭和10年)
ここでもうすこし、大村正次の詩的活動をみていくと、昭和三年には、詩集『春を呼ぶ朝』を上梓する。しかしそのあと急速にその精彩を欠いていく。それは、みるみるうちにしぼんでしまう。
三十代に入ったばかりだったが、その理由はよく分からない。中山輝が『詩と民謡』を創刊し、多くの詩人がそちらに鞍替えしていったからだろうか。そう考えるよりは本人自身が詩に行き詰まりを感じたというべきかも知れない。この辺りはいまも謎のままである。昭和八年に大村は高岡中学校を退職。同年9月に町立上市実科高女に復職。九年一月には氷見高女へ、十八年十一月、金沢二中に転じ、二十年七月、終戦間近のさ中に北海道旭川中学にとび、二十三年春には旭川高校教諭と、転々としている。その後、三十五年三月で高校を退官。この年長年連れ添った妻キクと離婚し第二の女性
と結婚している。
ここには何があったのか、わからないが、昭和三十八年には富山女子校に招かれて、ふたたび故郷の地、富山市岩瀬に帰っている。その翌年の十一月には、くらたゆかりの詩集『美しき流れ』の出版の集いにひょっこり姿を見せて富山詩人たちと三十年ぶりの交流をはたしている。
その後、四十四年六月 大村は『詩と民謡』{改題『日本詩』95号)に「明日の道」「花」の二編の詩を寄稿している。その間晩年は漢詩にしたしみ書道月刊誌に漢詩を二編発表している。漢詩の傾倒はかなり以前からだったらしい。
昭和四十九年六月四日、大村は富山市岩瀬福来町において孤独のうちに七十九才の生涯を閉じている。(了)