驚愕!透明なる幻影の言語をたずねてパート2

ことばの力をたずねながら、主に近・現代詩の旅にでたい~時には道を外れながら

今日で投稿十日目である。何を書こうか迷いながら書いてきたけど、やはりたいしたことがないらしく、読んで頂けないのは残念に思う。つまりおもしろくないということなんだろうとおもう。

 ところでいまは「立原道造」と平行して「中也中也」ノ-トを綴っていきたい。

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  このノートでは中原中也の晩年から(千葉寺の入院)書きはじめたので(①、②で)あらためて幼い頃の記憶をもとに書かれたという詩等と生い立ちについてみてゆきたいと思う。
数え年満二歳で山口に居た頃の素子である中也は「その年の暮れ頃よりのこと大概記憶ス」と、自信で4きしてもいるのだが、中原家の婆kにはには大きな柿のきがあったという。先の詩の「三歳の記憶」の初出は{文芸汎論」一九三六(昭和十一)年六月号。たぶん二九歳頃の作と推定されている。

       三歳の記憶

 縁側に意があたつてて、
 樹脂が五彩に眠る時、
 柿の木いっぽんある中庭は、                                              
 土は枇杷いろ はえが唸(な)く  

 稚厠の上に 抱えられてた、
 すると尻から 蛔虫(むし)が下がった。

 

 その蛔虫が、稚厠の浅瀬で動くので、
 動くので、私は驚愕(びっくり)しちまった。

 あゝあ、ほんとに怖かった
 なんだか不思議に怖かった、
 それでわたしはひとしきり
 ひと泣き泣いて やつたんだ。

 あゝ、怖かった怖かった
  ――部屋の中は ひっそりしてゐて、
 隣家は空に 舞ひ去つてゐた!
 隣家は空に 舞ひ去つてゐた!
                           ({在りし日の歌」所収より)

   一九〇七(明治四十)年十一月、生後六ヶ月の中也は母フクと祖母スエにつれられ、門司から船で大連へ向かい、汽車で父謙助の赴任地・旅順に赴くことになる。その時の記憶を題材にした随筆に「一つの境涯」があり詩編として先に掲げた{三歳の記憶」がある。一家がが山口に戻った頃(明治四十一年八月~翌三月)二歳に満たない中也の記憶がここにはうたわれている。中也が二十八、九歳の頃に書かれたものであろう、といわれている。
 ここに「一つの境涯」の抜粋をかきうつしていきたい。

    一つの境涯
          =世の母びと達に捧ぐ==

 寒い、乾燥した砂混じりの風が吹いている。湾も港市――其の家々も、ただ一葉にどす黒組得てゐる。沖は、あまりに希薄に見える其処では何もかもが、たちどころに発散してしまふやうに思はれる。その沖の可なり此方と思はれるあたりに、海ノン中から増すと画の沿いてゐる。そのマストは黒い、それも煤煙のやうに黒い、――黒い、黒い、黒い……それこそはあの有名な旅順閉塞隊が、沈めた船のマストなのである。
(中略)つまり私は当時猶赤ン坊であつた。私の此の眼も、慥かにに一度は、其のマストを映したことであったろうが、もとより記憶してゐる由もない。それなのに何時も私の心にはキチッと決つた風景が浮かぶところをみれば、或ひは潜在記憶とでもいふものがあつて、それが然らしめるのではないかと、埒もないことを思つてみてゐるのである。
(中略)
「あんよが出来出す一寸前頃は、一寸の油断もならないので、」行李の蓋底におしめを沢山敷いて、そのなかに入れといたものだが、するとそのおしめを一枚々々、行李の外へ出して、それを全部だし終わると、今度は又それを1枚々行李の中へ入れたものだよ。」――さう云われてみれば今でも自分のそんな癖はあつてなにかそれはexchangeといふことのおもしろさだと思ふのだが、それは今私も子供が、ガラスのこちらでバアといつて母親を見て、直ぐ次にはガラスのあちら側からバアといつて笑い興ずる、

 

そのことにも思い合わされて自分には面白いことなのだが、それは何か、科学的といふよりも物理的な気質の或物を現してゐまいか。その後四つ五つとなると、私は大概の玩具よりも遙かに釘だの戸車だの卦算だのを愛するやうになるのだが、それは何かうまく云へないまでも大変我乍ら好もしいことのやうに思はれてならない。何かそれは、現実的な理想家気質――とでもいふやうなものはないのか。
 (中略)
    左を苦境時代のはじめに用ふ事
       ほんとに悲しい日を持った人々は、その日のことが語れない。語りたくなのではない。語ろううにもどうにも手の附けようがないから、ついには語りたくなくなりもするのである。
 (未発表津遺筆「一つの境涯」より抜粋、推定制作時期は一級算五年後半ごろ)

 

 

 中也は、生まれて半年後には旅順に渡り柳樹屯へ移っ後、山口に半年ほどいて広島へ行く。二歳になるすこし前のことである。軍医である父謙助は広島の病院付きになったからである。
 「その年の暮れの頃よりのこと大概記憶す」と後年語っている。記憶力のいい人だと思うが、先に記した詩編では、「なんだか怖かったと」当時を振り返っている。
一九一一(明治四十四)年四歳、で広島の女学校付属幼稚園(現広島女学院ゲーンズ幼稚園)に入園。
「幼稚園では、中也はみんなから好かれたようです」と母フクは語っている。翌年、父健助の転任によって金澤にひっこすことになったとき、幼稚園で別れを惜しみ、先生や友達とともに鳴いたという感受性の強い子だったのだろうか。金沢に向かう途中汽車のなかでも「広島の幼稚園は良かったね」と中也は母フクに語っている。「あのころ、中也はほんとうによくいうことを聞く、優しい子供でした。子供とは思えんほど、ききわけがよかったんです。」


 一九一三(大正二)年六歳、北陸女学校付属第一幼稚園(現北陸学院短期大学付属第一幼稚園に入園。通園路の途中にある犀川が、雪解けで水勢が増したときには「橋が落ちる、橋が落ちる」といって中也は恐がり、橋を渡らず回り道をしたという。
 又友達と遊んでいてよその家家の窓ガラスを壊ししまったとき、ガラスを弁償してくれるよう母葉に懇願。{悪かったよ、」とえらい気をもんで」いたというエピソードがる。母は「物が気になる性質だったんですよ}と語っている。そして中也は広島・金沢時代に、山陰の弟の鬼にに成る。いくつかのエピソードから記憶力のいい、心の優しい子だった事がうかがいしれるだろう。


亜郎(中也三歳の時)、恰三(四歳の時)、思郎((六歳の時)が誕生。その兄弟達は「父は軍隊式、母は小笠原流、実母母スエは寺子屋式」でしつけられたという。一方、父謙助はよく子供らを連れて映画などを見に出かけている。そのことは「金沢の思ひ出」にもつづられている。詩編「サーカス」のモチーフになっているという見方もある。