驚愕!透明なる幻影の言語をたずねてパート2

ことばの力をたずねながら、主に近・現代詩の旅にでたい~時には道を外れながら

実感という資質-吉浦豊久詩集『或いは、贋作のほとりに佇む十七夜』について

 

詩とエッセイと写真が渾然一体となったムック形式の詩集は近頃めずらしい。そのうえこの吉浦豊久詩集は、前詩集 『或る男』から十九年ぶりの第三詩集であることに、感慨深いものがある。かつて菓子職人として富山市内で菓子店を構えていたころからの詩的出発を知っている私にはこのたびの詩集でも職人的な手作りの楽しさを充分に受け止めることができたのf:id:tegusux:20170828125250j:plainも、言葉がいっそう深まりをもって迫ってきたからにちがいない。

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 京都周辺に関わる作品を十七夜に編集して詩と写真とエッセイを組み合わせたところの理由が、タイトルに現れているように想われる。それは「或いは、贋作…」という言葉に従来の詩集に形式とは異質なものとして呈示する詩人の反転した意識を読み取ることはたやすいかもしれない。だが、彼の詩意識はあくまでも自分が面白くなければ詩ではないといった所がある。それは理屈ではない実感として詩を感じとってきた彼の資質といっても良いだろう。むろんこの場合の資質とは彼自身の個的な才能のことである。  本集のあとがきで「現代詩はどの辺にいるのか。一寸違った角度から問い直して見た。 一つ言えることは、詩は教わるものではなく、感じるものである、と。」そう書く彼にとって詩とは、実感として受け止めたものを、その雰囲気を大切に言語化する、あるいはフイクションとして組織化する。だから彼の作品はあらゆる意味から自由であるといえないだろうか。意味の深みにはまることなく自らの感性の震えを感動といいかえてもいいが、そのまま雰囲気としてつたえることに集中できるのではないかとおもう。

 

 暗い柊の
 氷雨
 ビショビショの滲んで

 何を待つのか
    
渡月橋の夕暮れて
琴聴茶屋で
底冷えした茶屋の女
の耳
その耳のような桜餅を秘蔵しているに違いない

塩漬けされた伊豆長岡在の桜葉の樽が
桂川のせせらぎを聞いている
そばに ゴム手袋一足       (「塩付けされた耳」全行)


 この詩のように作者は「渡月橋の夕暮れ」の「茶屋の女の耳」を見ながら「桜餅」を連想する。彼の第一詩集が『桜餅のある風景』であったが、ここでの「桜餅は」は、「耳のような桜餅」を「底冷えの茶屋の女」が秘蔵しているということでいきなり薄桃色の餅が女の秘書の意味に変わる。どこか儚げな女性へのエロスが匂い立つ。さらに次の連では「桜餅」からの連想が塩漬けの樽となって「桂川のせせらぎをきいている」作者の姿はどこにもみえず「そばに ゴム手袋一足」 がおなじく桂川のせせらぎをきいている。この詩の中心が、かつての象徴詩のようにぼやけて見えるのは、あえて意味に収斂されない作者の心の内を反映している、ということだろう。事実かどうかは別に一枚の絵 のような記憶の再現ともとれる。この曖昧さは記憶自体の曖昧さとかんがえれば、彼はなにより実感を大切に詩として現そうとしたその切実なモチーフを、読者として受け止めることでこの詩が成立すると考えられる。

 


 菅谷規矩雄は八〇年代に書いた評論のなかに近代詩の抒情詩人で第一級に掲げていたのが室生犀星だが、その犀星が一番に標榜した「感情」の表出ということをふと思い出させた。いささか古い詩の表現と同じといいたいのではない。むろん資質も全く違うだろうし、何よりも吉浦さんの中には時代を超越した詩の世界が存在しているということかもしれないと思う。最初にも書いたが彼はまず自分の実感がそのときの感情が、第一なのだ。それをいかにつたえるかに彼の詩の方法がかかっている。また彼はよく旅に出かける。おそらく全国くまなく旅をしているかもしれない。歴史的にも名のある古い町がすきだという。旅にでてその場所でひとり風にふかれながら詩作にふけることもあるのだろうか。古い建物や郷土玩具や郷土料理、道ばたに咲く名も無い草花にまで愛しくめでる心の持ち主であることは詩人としては当然かもしれないが、私のように余り過去を振り向かないというか懐古的な趣味が乏しいものには、彼のを旅にかりたてる本当の意味が理解できないでいたように思う。本集にも多くの旅の詩が納められてある。またエッセイを読めば旅の喜びがよくわかる。なかでも「播州平福の町」は秀作だろう。

 

わたしは またいきたいと思った
 平福の麦ころがしの土蔵のつづく道を
 いりいりと 行き詰まってしまったのだ
 何ももいやになってしまった

  船宿の
平入り半二階屋の
 因幡街道の
作用川を下る高瀬舟
見える窓
      
人はなやみ
 病み
 落ちて行く
      
  おおう
  道のはずれのたんぽぽよ
 芽吹きだち
 せせらぎのバイクの音の
 小川の風のちぢれよ
  少年の武蔵の
を/わたしの疲れた影を/コーラーの空き缶の凹んだ影を


 〔略)       

 

行く気山並み越え/川を分け入り/弓なりの川岸に続く平福の蔵たち
百年も二百年もたった漆喰のはげた土蔵たちよ//私は 行きたいと思う/春の日に       (「播州平福の町」全行)
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 「人はなやみ/病み/落ちていく」という悲しみからの逃避ではない。自己慰撫だけならば旅に出な
くても解決する事ができそうである。だが、ひとり旅に出て一層、人間の哀しみの本質にふれることができる。と、いった発見がもしかすると彼を旅に駆り立てる切実な理由のひとつではないか。この詩を通じて彼の詩的根拠の深さを見落としてはならないと思う。
 

むろん人生は旅のメタファーでもあるが、旅情という人生の哀歓もあろう。そうおもえば吉浦豊久は現在稀有な抒情詩人であるかもしれない。もうひとつ彼の心を揺さぶる掛け軸についてはふれることができなかったが、掛け軸の収集は単に所有欲というよりもおそらく亡父の遺伝子が騒ぐのでないだろうか。実際、掛け軸をインターネットで購入したり古物商をめぐて手に入れた数は、亡父のものをゆうに超えたらしい。彼の熱中度は一般的な骨董趣味といった言葉ではいいあらわせない何かがあるのだろう。それと現代詩との関わりについてはまた別の文脈が必要だが、贋作もまた楽しいという彼の資質だけは本物である。〔了〕