驚愕!透明なる幻影の言語をたずねてパート2

ことばの力をたずねながら、主に近・現代詩の旅にでたい~時には道を外れながら

立原道造ノート②-習作期の短歌のころ

(二)     
 立原道造が四季派の詩人と喚ばれることもあるがこの系統は、鮎川信夫によれば「永年にわたり伝統詩によってつちかわれた私的情操を基底としたものだが、本質的な隠遁主義だとおもう。」隠遁というのは俗世界から逃れるという意味もあるのだろうが、「なるべく『人間臭くない』方向、あるいは『人工的文明から少しでも遠ざかった』方向へと向かっていこうとする傾きがみられる。」ということだが、一般にいわれる詩の純粋性の譬えか、それとも時代の風の影響によるものだったのだろうか。ここに四季派といわれた詩人の作品をならべてみる。この詩に至るまでの立原道造の詩的出発が短歌であったことからはじめたい。

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   あはれな 僕の魂よ
   おそい秋の午後には 行くがいい
   建築と建築とが さびしい影を曳いていゐる
   人どほりのすくない 裏道を          〈立原道造「晩秋」より〉

   高い欅軒を見上げる
   細かい枝々は空を透き みずのやうに揺れている

   断崖から海をのぞくやうだ
   高い一本の欅を見上げ 私は地球玉に逆さにたつている 〈田中冬二「欅」より〉

       山青し巷の空
         かの青き山にゆかばや
   
       朝夕は雲にかくろひ
       かの山に住める人々                            (三好達治「山青し」より)
   
 四季派の詩意識は、海や山、田園といった空間的にも自然のほうに傾き時間的には過去の方に逃げ込むような特徴を見ることができる。過ぎ去ったものへの愛着、郷愁、ときには羨望となって、現在形で書かれているが、過去への風景が現前する形式で書かれている。


 立原道造が第一高校に入学(昭和六年)一年間は寮生活を送るが、苦痛で、二年目からは自宅から通学する。その頃文芸部に属しながら一高ローマ時の会員ともなる、中学三年の頃に国語教師に伴われて、北原白秋に会い、詩稿を示している。この頃また詩歌にたいする意思がが高まり前田夕暮の主催する交互短歌詩「詩歌」に四月号から翌六月までほとんど毎号、山本祥彦の筆名で短歌を発表。石川啄木の『一握の砂』『悲しき玩具』を愛読し、模倣するものでもあった。と同時に天体観測にも夢中になっていた。
 前田夕暮の短歌は、口語歌の先駆者であり、どちらかといえば物質的存在感に訴える技法があったといわれている。

 

向日葵は金幅油を見にあびてゆらりと高し日のちひささよ  (『生くる日に』より)
自然がずんずん体のなかを通過する――山、山、山(自由律第一歌集『水源地帯』より)

 

両方の短歌には形式上は大きな違いがあるが、自然の物質的存在感に訴えかける技法には変わりがないだろう。この前田夕暮の短歌から学んだものもあったにちがいない。
 しかし、石川啄木の三行分かち書きの短歌を模倣することから後の詩作への道をあるきはじめた。当時は啄木に共鳴した若者は多いと思うが、立原道造の共鳴現象は、たんなる共鳴というよりは本人の内面に反響する資質的な同致というものがあったからだろう。大多数の読者の生活経験を超えた文学的な共生感を生み出したもの、それは短歌的抒情というほかない日本特有の伝統的言語規範といえるだろう。
   
    いたく錆しピストル出でし
    砂山の
    砂を指もて堀りてありしに

 

  啄木の右の短歌を本歌どりした石原裕次郎の「錆びたナイフ」は有名な譬えでもある。この例をもちだすまでもなく、同時代的には「啄木の短歌を媒介とする文学的空間の磁場が形成されたのである」「啄木の短歌が多数の読者を獲得したのは、それが日本語の言語共同体に深く根ざしていたためであって、その逆ではない」(郷原宏立原道造』より)いったん短歌にふれた道造も当然のめり込んでいったのも以上の理由からといってもまちがいないであろう。

 

 昭和三年から翌年にかけて、「硝子窓から抄」「葛飾集」「葛飾集以後」の歌ノートを三種を残している。

    そらぞらしい楽しさでもいいや。もうすっかりうれしさうに口笛吹いてみた
     ひら〳〵光る草の葉、積みきって唇にあてた。撫子の花が黙つてみていた

  右の詩は少年期の初恋への葬送の歌であるが、自ら立ち直ろうとして打ち立てた虚無的な碑でもある。
また山本という筆名が初恋の少女の名前からとったものということである、ともかく儚く終わったものであったという過去の評伝からの引用はここでは省きたいが、この短歌にいたるまえの歌をかかげておきたい。

 

あのとき、ちょっぴり笑った顔が感傷をたきつけるのだ、白い歯並び!

小さな白板のような歯並びがちょっぴり見えたんで、僕は今日も淋しい

「お修身」があなたに手紙を受け入れさせなかった、僕は悪い人ださうです

朝の電車の隅で会釈し返したあなた、其時の顔が其のまゝ僕をあざける

何か思いつめてた――ばかなばかな僕、今草にねて空を見ている

 

 「詩歌」(昭和六年発行)に新人作新として掲載されたうちの短歌五首である。ある少女との失恋の直後の歌である。このように活字化し自己を客観化することで自意識を少しは克服したことがうかがえよう。


 「第一高等学校校友会雑誌」三三五号に「青空」を発表。友人と同人誌「こかげ」創刊、四号で廃刊。夏休みには自宅にこもり、読書にふける、このころから三好達治の詩集の影響で四行詩を書き始める。


 なぜ短歌から詩へと移り変わり、というか詩に戻ったという方がっただしいかもしれないが、啄木に遭遇した体験はナルシシズムであり、青年期特有の自己顕示欲と、逃亡へのあこがれ、というきめつけに疑問を投げかけるわけではないが、虚弱な体質であったことと、建築家の勉強についての想像力は詩作に何の影も落としていないのだろうか。当時、習作期の短歌をみても、単なる青年期特有の感傷、青春の感傷ではないかといえそうだ。特に感傷に新たな意味をみつけることはない。たとえば「〈感傷〉とは単なる甘いったるさを脱して 冬の日に凍える氷柱のようにな厳しい鋭角。それは、感覚の奥に秘められた知的意味。真の感傷には 理知的な培いをうながすものが多くありはしないか。」(大城信栄)と、〈感傷〉を賛美のするかのような思考の衣につつむ必要など要しない、そんな特別の意味を付加することはないともうが、啄木の短歌のように当時の読者に受け入れられたということも〈感傷〉だったと思うと、複雑である。
 

夭逝詩人につきまとう幻影が短歌の世界での感傷であったのかもかもしれない。だがあえて唐突ながらここで、キルケゴールのことばを記しておきたい。
「青年が人生並に自己自身について並外れた希望をだいているときは、彼は幻影のうちにある。その代わり老人は老人でその青年時代を想起する仕方でしばしば幻影にとらえられているのを我々は見るのである」(『死に至る病』より)

 

短歌を始めた頃とは限らないが、道造も短歌に希望を見いだしていた頃は幻影の中にいたということがいえるし、私もいままた幻影の中にいても不思議ではないといえるだろか。  

 何事かうれしきことの
 ある如く歩きて見き。
 淋しさのためか。                                      (「硝子窓から抄」)

 

我が息はさびし。
 はためく草の葉よりさびし。
   涙ぐむ                                                (「葛飾集」)

 

 をとめあり
麻雀の牌もて座り居し
  かの姿をば我は忘れず                                  (「葛飾集」)

 

右の短歌は習作のそれぞれのノートから引いたいたものだが、いずれにも「我」が書かれている。この「我」は石川啄木の短歌から受けとったものであり、近代から取り残されたような存在の「我」である。近代と「我」に対する違和については次の郷原宏の優れた指摘がある。

    「その歌の基本的な情動が、近代に対する違和とそこからの自己救済にあったかぎり、       それは結局のところ「我を愛する歌」のかたちととらざるをえなかった。歌の中で彼       らは彼らの「我」を愛した。あいされることとで、「我」は彼らの白鳥の歌になった。       そして自己愛の純一さが多くの読者を引きつけた。言い換えれば、彼らはひたすらに      「我」を愛することによって、多くの読者に愛される存在になった。これはおそらく        近代詩史の大きな逆説のひとつである。」

  彼らが「我」のほかに信じるものがなかったからこそ「我」を歌い「我」に執着せざるを得なかったはずであろう。近代への違和が彼らに「我」を作り出したのである。それは歌の中でしか存在しえないものであった。つまり歌の中に封じこめられてはじめて詩人の自己表現の核になる、といえるだろう。

  「我」と歌を歌う私との乖離。読者にははかりしれないこの奇妙か関係は、短歌という詩型がもつ現実における逆説として受け止めることになる。立原道造の出発が青春の素直な感情の吐露であるという短歌的抒情の世界にはまった、という言い方には素直にうなずけないが、かつて菅谷喜矩雄は「現代詩読本」のなかで立原道造の詩について「何よりもことばが不安であり、詩が、ことばの不安にたえずさらされているごとくである。」と、してさらにはその詩のスタイルは、錯叙とでもよぶべき語法をひとつの個性として持っている。と云うわけである。たとえば、 
                                      
        光っていた……何か かなしくて         
    空はしんと澄んでいた どぎつく                (「魂を沈める歌」より)

  立原の詩の骨格ともゆうべき実体が、この錯叙の語法なのだと菅谷は論述している。この錯叙の語法は、私は短歌を通してえたものと主張したいのだが直感であって論理的にはまとめられえない。(未)