驚愕!透明なる幻影の言語をたずねてパート2

ことばの力をたずねながら、主に近・現代詩の旅にでたい~時には道を外れながら

立原道造ノート①

(一)
 立原道造の詩に初めてふれたときに感じた「哀切」なもの。その裏側には滅びの予感が漂っていて、死のにおいに敏感な若い頃は、一時夢中で読みながらもいつしか離れていった。時間に縛られた読者の身勝手さは誰にも咎める事は出来ないが、あらためて詩集を読んでみることはけっして無駄な行為ではないだろう。あの頃には感じなかった詩の裏側にはりついている死のにおいや残酷な生の苦悩について、ここで見つめ直してみたいと思う。それは一編の詩のまえで立ちすくんだかつての不本意な意志が重なり合って囚われるものかげであれ、いつかは消えゆく儚い現象のものかげであれ、その喪失の輪郭を抱きしめるというのではない、しかし、夭折した詩人の短期間に開花したまぶしい光芒を感じるとき、己の失った若さをいとおしむこともあれば、いきがかりのように忘れるために思い出す記憶の残滓もあるだろ。

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 立原道造にはじめてふれた頃は「哀切」や「憧憬」といったことばが組みあわさって作り出す詩、その「風景の造型」感に心を強く引かれるものが合った。だから詩の底に張り付いている陰画としての死さえも、それとなく甘美に感じていた気がする。記憶のなかから生まれて、記憶のなかに還っていく詩。それはまるで幻の構造物、その建築力が読者のこころに強く響いたのだろう。作者の意識は常に「風」のように詩の中を擦過していくだけで、意味の実りなどに見向きもしないかのようにおもえた。

 

  立原道造が子供の頃に東京日本橋の実家を関東大震災で奪われているのだが、災害や自然の暴力の恐怖などの畏れをどのように感じていたのか、知りようもない推測があるだけである。その詩にかぎったことではないが、一編の抒情詩といわれるもののなかには読者を、甘美であれ、憂鬱であれ、それとなくさそっておきながら心が徐々に昂ぶる高揚期に至ってぽいとほうりだし、読者を置き去りにすることがある。作者のせいではない。詩がひとつの深みに接近する(神の領域とは云わないが)あの恍惚感は、なんであったか、いまあらためて立原道造の詩について読みかえしてみたいとおもう。
  第一詩集『萱草に寄す』(昭和一二年)の発刊の前に母堂にささげらえた詩集『日曜日』(昭和八年)がある。これらにおさめらえた詩集は当時彼が読み老けたと思われるコクトーアポリネールの影響が見られる。青春の詩人立原道造の出発期の消息を充分にうかがうにたりる作品群といえよう。

 

      《風敏局で 日が暮れる

   《果物屋の店で 日が灯もる

    風が時間をしられて歩く 方々に (「風 が ……」全行)

    裸の小鳥と月あかり
          郵便切手とうろこ雲
    引き出しの中にかたつむり
    影の上にはふうりんそう
    太陽と彼の帆前船
    黒ん坊と彼の洋燈
    昔の絵の中に薔薇の花
    
    僕は ひとりで
          夜が ひろがる  (「唄」全行)

 

  まだまだ習作期を脱してはいないが、当時の詩的雰囲気がつたわってくるだろう。
中村真一郎は、『立原道造詩集』のあとがきに次のように書いている。(吉本隆明の「『四季』派の関係」から引用)

 「ぼくは、今まで、数人の詩人に会ったことがあるが、彼だけは、どの詩人とも異なって、まったく物語の中の詩人のやうにーー彼の書き続けた奇妙な抒情的小説の人物のやうにーー こちらをも、その独自な夢想の中へ、いや応なしに誘い込んでしまふよう   な、この世のものとは思われない何かを、周囲に匂いのやうに保っていた。」

 

  独自な夢想の中にさそうという不思議な力はどこからわいてきたのか。それは「追憶」という甘美な書き方にあると思われる。鮎川信夫は自らの著書の中で((「日本の抒情詩」)立原道造に触れて、彼の詩は〈純潔な美への期待〉によって〈現在という時を、何か、自分が未来にいてふりかえったような心持ちで描く〉といった詩的方法を記していた。それは現在を過去にいてふりむくように過去にダブらせて書く書き方が甘美さを誘うということであるのだろう。私の考えでは「懐かしい明日」への憧憬といった時間的な錯誤の方法が甘美へと転化される、この詩的方法を彼は何処で手に入れたのか、もっぱらそのことに関心が集まるのだが、結論はみだせないまま、堀辰雄との出会いによって、あの軽井沢の地を吹き抜けるみどりの風のように決して無縁ではないといった不思議な出会いに収斂していくのだ。

 

  堀辰雄が主唱した雑誌「四季」の同人は、三好達治によれば〈ほぼ交友関係になる雑然たる集合〉であったという。さらに「四季」派には〈一般に自然感傷的態度と理念的奈新抒情につこうとする傾きが見られた。同時に邦語に対する破壊的よりは開拓的建設的な努力がみられた。その傾向はやや古風に平穏にみえるものではあったが、当時にあっては他にこれに努める載らす意味に努めるものがほとんどなかったから、それは決して無意味な企てではなかっただろう。〉と記して、立原道造の詩を掲げている。


   夢はいつもかへって行つた 山の麓のさびしい村に
   水引草二風が立ち
   草ひばりのうたひやまない
   しづまりかへつた午さがりお林道を

   うららかに青い空には陽がてり 火山は眠ってゐた
       ーーそして私は
    見てきたものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
    だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた

       夢は そのさきには もういかない
   忘れつくしたことさえ 何もかも忘れ果てようとおもひ

   夢は 真冬の追憶おうちに凍るであらう
        そして それは戸をあけて 静寂のなかに
        星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう  (「のちのおもいに」全行)


  右の詩を掲げて、三好達治は〈当時の立原の詩である。彼の誤報語彙の繊細幽趣は前後に陽がなかった。〉さらに〈専らひたむきに無心にまた無鉄砲に身を投げかけた清純な高さ鋭さをもっていた。〉この詩形は後のマチネ・ポェチックの定型詩運動にもしかすると示唆を与えたもの〉であったかも知れないと記している。

 

 立原道造の文学の出発は、短歌であり、短歌における「感傷」にあった。雑誌「未成年」の編集後記には、立原道造が初めて編んだ歌集「ガラス窓から抄」より七、八年の後に書かれたものだが〈青春の感傷を美しき文学の沃野に思いっきり氾濫させることこそ ぼくらの誇りである。感傷を怖れる所に誠実真摯はない。〉と「感傷」をなんの憶面もなくさらけだす。このことは文学的志向の青年であればなおさらのこと、一応は敬遠するはずの言葉ではないかとおもうが、堂々と宣言する。それが立原道造の純粋さであろう。感傷の奧に秘められた知的な意味を考えるとき、真の感傷とは常に理性を伴わずしてありえないことを理解していたものの言ではないかとおもう。
 

  短歌では、山本祥彦のペンネームで各作品を発表。その頃愛誦していたのは石川啄木であったといわれている。私が最初に感じた「風景の造型」感もこの辺りに主な祖型があったものといえよう、
 ここで、大正初年に日本橋界隈に生まれた立原道造の幼年期を振り返ってみるとき、道造を言葉の世界に導いたとされる誘因はなんなのか、全集等の年譜を参照しながら簡略な年譜をえがいてみよう。

 

・大正三年(一九一四年)
      七月三十日、東京市日本橋区橘町に生まれる。(家業は荷造り用木箱の製造業)
・大正八年(一九一九年)  五歳
   八月二十二日父貞治郎死去。道造は家督を相続し、三代目の店主と成る。
・大正十二年(一九二三年)  九歳
   九月一日、関東大震災。橘町の家は焼失四、一家は千葉県東葛飾郡新川村の親     戚宅に批難。

 

・昭和二年(一九二七年) 十三歳
 四月、府立第三中学校に入学(芥川龍之介堀辰雄の母校である)この頃から文学書   を読み始め、
   雑誌部発行の「学友開始」に、「ある朝の出来事」を寄稿する。

 

・昭和三年(一九二八年)十四歳
   同級生金田敬の妹久子(小学校六年生)を識り、ひそかに思慕をよせるようになる。このころから盛んに短歌をつくるようになる。  
   

・昭和四年(一九二九年) 十五歳
 三月下旬、精神衰弱のため震災時の避難先であった千葉の親戚方に赴いて静養する。   中学三年の一学期は休学して、転地先の東葛飾地方の方言を採集・調査したり、蛙る   に取材した短歌や俳句を集めたりする。夏期休暇中は主として奥多摩の御岳ですごす。    口語自由短歌の創作、パステル画の制作が、ますます盛んになる。将来の進路につい て思い悩み、美術学校に進学することを希望するも、母親の反対にあい、のちに大学 で天文学を専攻するというように方針が定まる。そのため家業は弟の達夫がつぐことになる。

 

 立原道造のような夭逝の詩人にあっては以上のような略年表の中に既に自己形成のひな形をおおかたかたどっていると云っても過言ではないかもしれない。数年後の道造は大学での天文学ではなく建築学を学び、卒業後も建築事務所につとめるようになる。

(未)

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