驚愕!透明なる幻影の言語をたずねてパート2

ことばの力をたずねながら、主に近・現代詩の旅にでたい~時には道を外れながら

中原中也ノート②

 中也が三十歳の若さでなくなるのだが生前と死後に出版された詩集が二冊あるだけだが、どうしてこんなに昭和詩人の中では一流の抒情詩人と評価され読み継がれているのだろうか。私の単純な疑問は鮎川信夫の文章で(「日本の叙情詩」)でおおよそ納得できた。


  「『先日、中原中也が死んだ。夭折した彼が一流の抒情詩人であった。字引き片手に横文字詩集の影響なぞ受けて、詩人面をした馬鹿野郎どもからいろいろなことを言われ乍ら、日本人らしい立派な詩を沢山書いた。(後略)』と小林秀雄は中也が死んだときに書いています。まさか小林がそういったからというわけでもありますまいが、その後、文壇・詩壇の多くの人々が、中原を別格視、もしくは昭和初期に活躍した詩人の最右翼にあげています。」{それにしても詩人面した馬鹿野郎どもとは、ひどくないか)
  小林の中也を取り上げているその態度には詩人としては言葉に出せないある異和を感じているような感触を受け取る。「小林や、河上徹太郎が中原の死に対してだけ、深い理解しめしたのでしょうか。」鮎川はそれがたまたま仲間だったからその言動に共鳴し、偶然のように詩を説く鍵を持ち合わせていた仲間同士というよりも、人間中原中也をよく理解していたからという結論に至っている様子だが、鮎川は「中原中也を知らない人間が単に一冊の詩集『中原中也詩集』を読むとき非常にすぐれた少数の詩を除いては風変わりな作者のその場その場の思いつきに終わっているように感じられる詩が決して少なくない部分を示している」{黒田三郎の発言)ことも事実でしょう。」とそれとなく黒田の批判を指摘。

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 話は横道にそれそうだが、作業療養所では中原は松葉を掻き、貝殻を砕くという単純作業に従事しながら、薬物に対し手頼ってはいけないという健気さを見せる、いまが〈十年に一度あるかないかの詩歌の転換期〉とも主張している。入院当初は詩作は禁じられたいたが、それでも「雑記」には何編か記されていて、この時期の中也の心と精神の有り様を見ることが出来る。

 

    雨がふるぞえー病棟挽歌

 

  雨が、降るぞえ、雨が、降る。
  今宵は、雨が、降るぞえ、な。

  俺はかうして、病院に、
  しがねえ暮らしをしては、ゐる。

 

  雨が、降るぞえ、雨が、降る。
  今宵は、雨が、降るぞえ、な。
  らんたら、らららら、らららら、ら
  今宵は、雨が、降るぞえ、な。

 

  人の、声さえ、もうしない。
  まくらくらの、冬の、宵。
  隣の、牛も、もう寝たか。
  ちつとも、藁のさ、音もせぬ。

 

  と、何号かの病室で、
  硝子戸、開ける、音が、する。
  空気を、換へると、いふぢやんか。
  それとも、庭でも、見るぢやんか。

 

  いや、そんなこと、分るけえ。  
  いづれ、侘しい、患者の、こと、
  ただ、気まぐれと、いはば気まぐれ、
  庭でも、見ると、いはばいふまで。

 

  たんたら、らららら、雨が、降る。
  たんたら、らららら、雨が、降る。
  牛も、寝たよな、病院の、宵、
  たんたら、らららら、雨が、降る。 

 

   中也はおそらく狂気と狂気でないものの境界線を彷徨いつつあったとみるべきだろうか。愛児の文也の死後に、衝撃のあまり神経衰弱に陥ったということだが、もしかすると中也の深い悲しみは文也のなかに入り込んで同一化してしまったようにみえないだろうか。生きて帰らぬ我が子と同一化したその目でこの世を見つめると言う悲しみの局限化で「たんたら、らららら、」とオノマトペは意味の違った音をひろい上げ特別の感情をあらわしている。悲しいような切ないようなあるいはなぜかうれしくはずむような微妙な心の振動。精神病棟でのことばにならない感情は中也にしか表現できないものであるかもしれない。わずか三十年でこの世を去った中也は、世間がどう評価を下すかと言うことの前に肉親への愛の深さを甘受することの方にこそ大切な詩作の根拠があるように思える。(未)