驚愕!透明なる幻影の言語をたずねてパート2

ことばの力をたずねながら、主に近・現代詩の旅にでたい~時には道を外れながら

伊東静雄ノート①

 伊東静雄の詩業が近代詩の流れの中でどのような位置におかれているのか、について私はしらない。で、始まるかなり古い文章(一九七九年三月発行・「ルパン詩通信」)がみつかったので、今回はそれをここに書き移したいとおもう。今年になって書いた詩人論で山村暮鳥①②、立原道造①~④、大手拓次①、の小さな論文に比べて、少し言葉も古いが、それほど考えは変わっていないようにも思えるので、あえて書きうつそうとおもう。そのまえに次の詩についてここに挿入しておきたい。

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  堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。 

 

 この水中花はわたしも夜店で見た記憶がぼんやり浮かんでくる。このことに関して菅谷規矩雄は「わが国の近代における「市井の詩」のさいごの残照でもあるだろう。伊東静雄が水中花に眼をとめたことは、ひとつには全く彼の個性的な必然であったと共に、他方では、作品《水中花》は、〈もの〉をモティーフにしている点で、伊東の詩作にあっては、ほとんど一度限りの例外的なできごとでもあった」としてこの詩は伊東の詩のすべてが縮されているとまで述べている。まずは、まえがきも含めて全編ここに引用しておきたい。

 

  水中花といって夏の夜店に子供達のために売る品がある。木のうすい〳〵削片を細く圧搾してつ   くったものだ。そのまゝでは何の変哲もないだが、一度水中に投ずればそれは赤青紫、色うつく      しいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコップの水のなかなどに凝としづまつてゐる。
   都会そだちの人のなかには瓦斯灯に照らしだされたあの人工の花の印象をわすれずにゐるひとも      あるだろう。

 

今歳水無月のなどかくは美しき。
 軒端を見れば息吹のごとく
 萌えいでにける釣りしのぶ。
忍ぶべき昔はなくて
 何をか吾の嘆きてあらむ。
六月の夜と昼のあはひに
 万象のこれは自ら光る明るさの時刻。
 遂ひ逢はざりし人の面影
一茎の葵の花の前に立て。
堪えがたければわれ空に投げうつ水中花。
金魚の影もそこに閃きつ。
 すべてのものは吾にむかひて
  死ねといふ、
  わが水無月のなどかくはうつくしき。

 

文字通りうつくしく虚空にひらく水中花のイメージは、絶品であろう。

 伊東静雄の詩集は『わがひとに与ふる哀歌』と『夏花』のうちの数編を頂点とし、戦争詩とみなされ
る七編の作品を含む『春のいそぎ』を詩的達成とは別に、底辺に置くとするおおかたの評言に異論はないとおもう。およそ昭和七年から一八年に至るその間の三つに詩集は、ゆうまでもなく戦争期と重なっており、その時代の精神の刻印を明瞭に認めることができる。
 伊東のことばでいえば〈意識の暗黒部との必死な格闘〉により一時代の抒情詩の可能性を極限へとのぼりつめたといっていい、そのゆるぎない諦念(=凝視)と情念(=拒絶)を貫く抒情への意志(=表現)によって、近代詩以降の日本の抒情詩に不滅の痕跡を残しているとも言い換えうる。

 

    わが死せむ美しき日のために
    連嶺の夢想よ! 汝が白雪を
  消さずあれ

 

にはじまり緊迫して機密度の高さで〈わが痛き夢〉をひとすじに歌い上げた「曠野の歌」の絶唱や、

 

とき偶に晴れ渡った日に
 老いた私の母が
 強ひられて故郷にかえって行ったと

 私の放浪する半身 愛される人
 私はお前に告げやらねばならぬ
 誰もがその願うところに
  住むむことが許されるのではない

 

の、一つの決意を凝縮した二行の詩句を持つ「晴れた日に」の透明な作品。ここでは誰もがその願うところに住むことが許されなければならない、という生地から遁走するかのように自らの〈生〉のねじれを現実世界と切り結ぶ苦い範囲を抱えて、なおそう言い切る拒絶の精神を歌い継ぎ、そしてさらには日本的な美意識と自然との融合、あるいは苦痛の合体をつきつめて歌う「八月の意志にすがりて」「水中花」へと。再び、伊東の言葉で言えば〈ゆきづまったところからやっとしぼりだすような詩〉の頂点をきわめたといってさしつかえないだろう。

 

  しかし伊東の〈行き詰まったところからやっとしぼり出すような詩〉が、「春のいそぎ」の挫折へ、その〈痛き夢〉は後退を強いられていくわけだが、戦争詩という状況下での飢にささくれながら、自らを鼓舞するように、けして手ばなさず書き続けた詩への愛着が次のような文面からも読みとれる。文学としては不毛であった日本浪漫派の詩人の中にあって誰よりも純粋にその思想を受け継いだと私にはおもえるし、それゆえにいっそうの無念さを感じとることもできるのである。(未完)