驚愕!透明なる幻影の言語をたずねてパート2

ことばの力をたずねながら、主に近・現代詩の旅にでたい~時には道を外れながら

寺山修司私論ー《歌の別れ》は何をつかんだか。

 

(一)

寺山修司が出現する一九五四年までの歌壇は、「沈滞を進化と勘違いするほどに長老が絶対権を持った部落であった。」と言う中井英夫が見いだした寺山修司の出現は「まさに青春の香気とはこれだといわんばかりにアフロディテめく奇蹟の生誕であった」といわしめている。それからの四十七才でこの世を去るまでは、まるで約束されたような病身でありながらの孤独のランナーとして、俳句、短歌、現代詩をはじめ、映画、演劇、ときに競馬、ボクシング、そして「天井桟敷」とあらゆる文化芸術を網羅するようにサブカルの世界もつきぬけていった一瞬の偉大な旋風であったといいかえてもいいだろうか。
十二、三歳で俳句を作りその後、短歌へとすすんだ寺山修司の才能の開花はそれを発掘したという中井英夫の力ばかりとはいえない気がしてくるだろう。

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  森駆けてきてほてりたるわが?をうずめんとするに紫陽花くらし
    空豆の殻一せいに鳴る夕母につながる我のソネット
     夏川に木皿しずめて洗いいし少女はすでにわが内に棲む
     国土を蹴って駆けりしラクビー群のひとりのためにシャツを編む母
     蛮声をあげて九月の森に入れりハイネのために学をあざむき
     雲雀のすこしにじみそわがシャツに時経てもなおさみしき凱歌
     失いし言葉かえさん青空のつめたき小鳥打ち落とすごと
     わがカヌーさみしからずや幾たびも他人の夢を川ぎしとして

  これらは高校生のころの作品だが、無心の美しさが心を打つ。同時に読者である私たちの少年時代をも仄かに照らす夢淡きランプである、と選者の中井英夫を賞賛させた投稿作品の一部である。この作品からは五月の風にはにかみながらも聡明で感受性豊かな少年の颯爽とした姿が確実にこのむねにとどく。いまにおもえば当時はパソコンなどのまだ無い時代、どのように溢れる思いの言葉をノートなどに書きつづっていたのだろうか。
  これまで刊行された歌集は次のとおりである。

  『われに五月を』 昭和三十二年一月・作品社刊。(短歌の外、詩、俳句等収録)
  『空には本』     昭和三十三年六月・的場書房刊。(第一歌集)
  『血と麦』       昭和三十七年七月・白玉書房刊。
  『田園に死す』   昭和四十年八月・白玉書房刊。
  『寺山修司全歌集』昭和四十六年一月・風土社・刊。(前期の作品すべてと、未完詩集           「テーブルの上の荒野』を収録)

 いま、寺山修司の第一歌集『空には本』(五八年発行)を久しぶりにめくりながら発行の当時は気がつかなかったが、麦藁帽子がモチーフとなっている短歌には不思議とふるさとのにおいがした。
 今でこそ「私」を仮装する寺山の手法を通して短歌を詠むことができるが、当時はその短歌に寺山の少年時代をにょにつな事実として読んでいた気がする。たぶん虚構によって触れる真実の深さを知るにはあまりにも稚拙な世界にとりまかれていたのかもしれない。

 

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

夏帽のへこみやしきを膝にのせてわが放浪はバスになじみき
わが夏をあこがれのみが駆け去れり麦藁帽子被りて眠る

麦藁帽子を野に忘れきし夏美ゆえ平らに胸に手をのせ眠る

列車にて遠く見ている向日葵は少年の振る帽子のごとし

ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駆けて帰らん

 

麦藁帽子が少年時代の郷愁を呼び込む世代はもう少ないだろう。戦後の少年たちもすっかり年齢をとったけれど、唄は永遠に年を取らないからだろうか、古い詩や小説の中へ引き戻されることがある。
 堀辰雄の短編小説「麦藁帽子」(淡い恋の物語)や芥川龍之介の「麦わら帽子」(「侏儒の言葉」の文章)もあるが、一番心に残っているのは西条八十の「帽子」と立原道造の「麦藁帽子」がある。中でも西条八十の詩は角川映画人間の証明』の重要なモチーフになっていて、その主題歌を歌ったジョー中山が一躍脚光をあびた。     

   母さん、ぼくのあの帽子どうしたでしょうね?
      ええ、夏の碓氷から霧積(きりづみ)へゆくみちで、
      渓谷へ落としたあの麦藁帽子ですよ。
     
    母さん、あれは好きな帽子でしたよ
    ぼくはあのときずいぶんくやしかった
    だけどいきなり風がふいてきたもんだから、
    (略)
 母さん、本当にあの帽子どうなったんでせう?
    そのとき傍に咲いていた車百合の花は、もう枯れちゃったですね    
    そして、秋には灰色の霧が丘をこめ
    あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかもしれませんよ。 
    (略)                ( 西条八十「帽子」)
     
 主演は岡田茉莉子松田優作であったが、後に松田優作の追悼のために歌ったジョー山中も二〇一一年八月には永眠、享年六四才であった。この映画は二〇〇一年には渡辺謙、二〇〇四年に竹野内豊によってそれぞれリメークされている。

 寺山修司の歌集からの連想が〈非在のふるさと〉に思いを馳せることになる。
寺山修司は「私は一九三八年十二月十日に青森県の北海岸の小駅で生まれる。しかし戸籍上では翌三六年一月十日に生まれたことになっている。」(「汽笛」)と書いているが、信じていいかどうかわたしの疑いははれていない。この二つの誕生日をあちこちで書いていてどれが本当なのかわからない。そのうえくりかえし書きつづる「少年時代」を読むたびに当時はとまどっていたが、嘘も真実の一部だと思い知るまでもなく、またたくまに映画や演劇、「天井桟敷」など、寺山修司の疾風怒濤の時代の波にまかれていたのではないかと思う。寺山修司は新宿の「きーよ」(ジャズ喫茶)によく行っていたというが私は新宿でも「汀」が多かったので出合うことがなかった。残念な気がするが、いや、どこかで出合っているような気もしてくる。半世紀も前のこと、今更ながら有りもしないことがあったように思いかえされるのが、寺山修司なのかもしれない。こんな妄想もつい最近、ユーチューブで黒柳徹子との対談を(輝子の部屋)の偶然見たからであろうか。(笑わない寺山に黒柳徹子は寺山の笑った顔が可愛い、だからもっと笑いなさいよと、いわれた寺山がはにかみ笑っていた。ユーチューブでは映画『田園に死す』などが観ることもできるし、タモリ寺山修司の物まねも見ることが出来る。傑作である。) 
 

寺山作品の魅力にとりつかれた若者がいまも大勢いる。
それはつねに弱いものや敗者に身を寄せる寺山の柔らかな感性が、自分を阻害させていると感じやすい青春期の若い人々の共感を呼ぶからか。「ほんとうの自分なんかありはしない。いくつも他人の言葉や遺伝子や情報の集合体でしかなく、仮面を付けて自分を演じつづけているだけなのだ。」と言う寺山の断言に、現実と仮想現実の境界さえあいまいなままで揺れている現代人の共鳴するところだろうか。寺山自身の辛い境涯をあえて虚構でしか語らぬ彼に畏敬に近い思いを抱くことになるのだ。 
 

かつて詩人の谷川俊太郎は、寺山修司についてつぎのように書いた。
  「寺山は、いろいろなものをもっている。東北なまりをもっている。四年間の病歴をもっている。六コのサイコロと三組のトランプをもっている。ネルソン・オルグレンの小説とラングストン・ヒューズの詩集をもっている。女についての無限の好奇心をもっている。人世についての無数の観念をもっている。野心と、人一倍旺盛な嫉妬心をもっている……。」
 寺山修司は「目をつむるとあの日の夕焼けが浮かんでくる。私の町――それはもはや〈この世に存在しない町〉だ。サローヤンではないが男の経験の大部分は〈思い出のよくないことばかり〉なのだ。だが、ひどく曖昧になって、消えかかるものを、洗濯箱の一番下から古いシャツをひっぱり出すように―もう一度ひっぱりだしてみることも、また、私のたのしみの一つでもあるような気がする。」と書く。 「きえかかるものをひっぱりだす」といように過去をたどりはじめながら〈この世に存在しない町〉だけど思い出のにだけ存在する町はたしかにあったのだろう。夕焼けの町という美しい幻想の時間帯にはサーカスのジンタのもの哀しい音色に乗せて、少女の蛇人間や、一寸法師のピエロが呼び込む見世物小屋。暗闇の中で胸をときめかせたスクリーンの懐かしさは、少年寺山修司を夢中にさせた「この世に存在しない」もう一つの世界であった。


 寺山修司は二十九歳の時生い立ちの悪夢を永い叙事詩にまとめた。{地獄変と題したこの作品は、ほぼ二年がかりで四千行を超えるものになって、短歌の部分だけはまとめ歌集「田園に死す」として出版。詩の部分は再度整理しこの仕事にのめり込むことになる。三十才の時には次のような詩を書いた。
   
    血が冷たい鉄道ならば/はしり抜けてゆく汽車はいつかは心臓をとおることだろう。
    同じ時代の誰かれが/血を穿つさびしいひびきをあとにして/私はクリフォード・
  ブラウンの旅行案内の/最後のページをめくる男だ/私の心臓の荒野をめざして/
    たったレコード一枚分の永いお別れもま/いいではにですか/自意識過剰な頭痛の霧
  のなかをまっしぐらに/曲の名は Take   the    A-train/そうだA列車で行こう
  それがだめだったらはしってゆこうよ

 

 寺山修司が死の前年「朝日新聞」に発表した作品。珍しい出来事で詩の読者はこの事を待っていた。

 

        昭和中年十二月十日
   ぼくは不完全な死体として生まれ
   何十年かかつて/完全な死体となるのである
   そのときが来たら
   ぼくは思いあたるだろう
   青森市浦町橋本の
   ちいさな陽あたりのいい家の庭で
   外に向かって育ちすぎた桜の木が
   内部から成長をはじめるときが来たことを

   子供の頃、ぼくは/汽車の口まねが上手かった
   ぼくは
   世界の果てが
   自分自身の夢のなかにしかないことを
   知っていたのだ (「懐かしの我が家」前編)
 
   寺山修司が久しぶりに書いた詩であった。大方の人の目には新鮮に映ったものと思う。
寺山修司について何か書こうとするとどんどん遠くなっていくような気がする。すべては過去の出来事だから当然と言えば当然のことなのだろう。最後に、私の一番気に入っている短歌を引いてひとまずじることにすする。 「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや(祖国喪失)」 (了)   I,tanaka