驚愕!透明なる幻影の言語をたずねてパート2

ことばの力をたずねながら、主に近・現代詩の旅にでたい~時には道を外れながら

「日本海詩人」と詩人大村正次について(初めてのブログです)        

    井上靖源氏鶏太など、若い頃の詩作のよりどころであった北陸の詩誌。「日本海詩人」の編集者であり詩人であった木村正次についての足跡を記しておきたい。
 木村正次は、石動に住み、県立高岡中学(元高岡高校)の教諭であった。明治二十九年(一八九六)六月十五日(現富山市)生まれ。大正五年に富山師範学校を卒業し岩瀬小学校訓導としてスタート、本人の努力の結果のちに、高岡高女教諭に栄転。師範在学中の大正四年に室生犀星主宰の『卓上噴水』三号に鳳太郎のペンネームで、次のような誌を発表している。


金 蔵 鳳 太郎
  

暗い暗い真くら闇

 ふくれあがった太鼓腹
ひとられるだけふとり
はち切れたとき
 光をはなち
飛び出した金蔵
 

『卓上噴水』は室生犀星の発行(大正四年三月)で、金沢市千日町二、人魚詩社であった。同人には萩原朔太郎と村山暮鳥がくわわっている。この詩誌は四月号、五月号の三冊で廃刊となり、やがて次の詩誌『感情』に繋がっていく。
 

『卓上噴水』の創刊号は全アート紙四六晩、十六頁、表紙にはギリシャの壁画の写真がすりこんである。作品は、犀星の短詩が一編、朔太郎、暮鳥の詩がそれぞれ二編おさめられている。二号では犀星ら三同人の他に、高村光太郎、茅野粛々、日夏耿之助、前田夕暮多田不二ら八名が参加。暮鳥の詩編「だんす」も収まっている。この一作は、詩集『聖三稜玻璃』(大正4・12。人形詩社刊)に収録されている。三号には、蒲原有明らの寄稿もあって、十一名の執筆。鈴木しげ二、鳳太郎ら新人の作が掲載されている。木村正次の詩的出発は、犀星の目にとまり好運であったといえよう。
 

日本海詩人』は、昭和三、四年をピークにやがて若手の宮崎健三、井上泰(靖)、久湊信一らが、詩誌『北冠』(昭和4年)を、中山輝らが『詩と民謡』(昭和5年)を、また方等みゆきらが『女人詩』 (昭和6年)をと、それぞれが続いて詩誌を創刊していく。
主幹であった『日本海詩人』はしだいにさきぼそりになって、ついに、昭和七年一月号を発刊後休刊し、事実上の廃刊に追い込まれた。当初の地方主義をかかげた詩人聯盟の機能も、ここにいたってまったく失なわれてしまったことになる。
 

創刊時の『日本海詩人』は、富山、石川、新潟、四県の詩人があつまり〝地方主義文学運動〟を宣言。
ここに参加した富山県関係の詩人の詩集を掲げておきたいとおもう。

・千石喜久『文明の宣布』’大正15年)
・藤森秀夫『紫水晶』(昭和2年)
・大村正次『春を呼ぶ朝』(昭和3年)
・久湊信一『藻の國』(昭和4年)
・藤森秀夫『稲』{昭和4年)
・山岸曙光子『提灯柿』(昭和4年)
・中山輝『石』(昭和5年)
・瀬尾正潤『悪魔になろうか』(昭和6年)
・埴野吉郎『緑の尖兵』(昭和7年)
・松原与四郎『あゆの風』(昭和7年)
・くらたゆかり『きりのはな』(昭和9年)
・方等みゆき『しんでれら』(昭和10年)
 

ここでもうすこし、大村正次の詩的活動をみていくと、昭和三年には、詩集『春を呼ぶ朝』を上梓する。しかしそのあと急速にその精彩を欠いていく。それは、みるみるうちにしぼんでしまう。
 三十代に入ったばかりだったが、その理由はよく分からない。中山輝が『詩と民謡』を創刊し、多くの詩人がそちらに鞍替えしていったからだろうか。そう考えるよりは本人自身が詩に行き詰まりを感じたというべきかも知れない。この辺りはいまも謎のままである。昭和八年に大村は高岡中学校を退職。同年9月に町立上市実科高女に復職。九年一月には氷見高女へ、十八年十一月、金沢二中に転じ、二十年七月、終戦間近のさ中に北海道旭川中学にとび、二十三年春には旭川高校教諭と、転々としている。その後、三十五年三月で高校を退官。この年長年連れ添った妻キクと離婚し第二の女性
と結婚している。
 

ここには何があったのか、わからないが、昭和三十八年には富山女子校に招かれて、ふたたび故郷の地、富山市岩瀬に帰っている。その翌年の十一月には、くらたゆかりの詩集『美しき流れ』の出版の集いにひょっこり姿を見せて富山詩人たちと三十年ぶりの交流をはたしている。
 

その後、四十四年六月 大村は『詩と民謡』{改題『日本詩』95号)に「明日の道」「花」の二編の詩を寄稿している。その間晩年は漢詩にしたしみ書道月刊誌に漢詩を二編発表している。漢詩の傾倒はかなり以前からだったらしい。
 

昭和四十九年六月四日、大村は富山市岩瀬福来町において孤独のうちに七十九才の生涯を閉じている。(了)