驚愕!透明なる幻影の言語をたずねてパート2

ことばの力をたずねながら、主に近・現代詩の旅にでたい~時には道を外れながら

明治大正新詩書概表2

明治十五年 

新体詩(詩集-翻訳および創作)外山正一、矢田部与四郎、井上哲治郎会著 丸屋発行。

新体詩歌第一集、第二集(詩集-翻訳および創作)竹内節編。

 

明治十六年

新体詩歌第三集、第四集(詩集-翻訳および創作)竹内節編。

Fugitive  Ver 横浜某所印行。出版当時の新聞雑誌に出た英米詩人の短編を集めて、横浜で印行したものだが、編者発行者の名は出ていない。

小学唱歌第二集、文部省音楽取調掛編纂。三月、大日本図書株式会社発行。

 

明治十七年

小学唱歌集第三集、文部省音楽取調掛編纂。三月、大日本図書株式会社発行。

 

明治十八年

新体詩歌第五集 竹内節編

十二の石塚(詩集)湯浅半月著。十月、自家発行。巻頭に上村正久の序を添えている。

新体詩(詞華集)新体詩林社編。〔以下次号)

立原道造ノート①

(一)
 立原道造の詩に初めてふれたときに感じた「哀切」なもの。その裏側には滅びの予感が漂っていて、死のにおいに敏感な若い頃は、一時夢中で読みながらもいつしか離れていった。時間に縛られた読者の身勝手さは誰にも咎める事は出来ないが、あらためて詩集を読んでみることはけっして無駄な行為ではないだろう。あの頃には感じなかった詩の裏側にはりついている死のにおいや残酷な生の苦悩について、ここで見つめ直してみたいと思う。それは一編の詩のまえで立ちすくんだかつての不本意な意志が重なり合って囚われるものかげであれ、いつかは消えゆく儚い現象のものかげであれ、その喪失の輪郭を抱きしめるというのではない、しかし、夭折した詩人の短期間に開花したまぶしい光芒を感じるとき、己の失った若さをいとおしむこともあれば、いきがかりのように忘れるために思い出す記憶の残滓もあるだろ。

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 立原道造にはじめてふれた頃は「哀切」や「憧憬」といったことばが組みあわさって作り出す詩、その「風景の造型」感に心を強く引かれるものが合った。だから詩の底に張り付いている陰画としての死さえも、それとなく甘美に感じていた気がする。記憶のなかから生まれて、記憶のなかに還っていく詩。それはまるで幻の構造物、その建築力が読者のこころに強く響いたのだろう。作者の意識は常に「風」のように詩の中を擦過していくだけで、意味の実りなどに見向きもしないかのようにおもえた。

 

  立原道造が子供の頃に東京日本橋の実家を関東大震災で奪われているのだが、災害や自然の暴力の恐怖などの畏れをどのように感じていたのか、知りようもない推測があるだけである。その詩にかぎったことではないが、一編の抒情詩といわれるもののなかには読者を、甘美であれ、憂鬱であれ、それとなくさそっておきながら心が徐々に昂ぶる高揚期に至ってぽいとほうりだし、読者を置き去りにすることがある。作者のせいではない。詩がひとつの深みに接近する(神の領域とは云わないが)あの恍惚感は、なんであったか、いまあらためて立原道造の詩について読みかえしてみたいとおもう。
  第一詩集『萱草に寄す』(昭和一二年)の発刊の前に母堂にささげらえた詩集『日曜日』(昭和八年)がある。これらにおさめらえた詩集は当時彼が読み老けたと思われるコクトーアポリネールの影響が見られる。青春の詩人立原道造の出発期の消息を充分にうかがうにたりる作品群といえよう。

 

      《風敏局で 日が暮れる

   《果物屋の店で 日が灯もる

    風が時間をしられて歩く 方々に (「風 が ……」全行)

    裸の小鳥と月あかり
          郵便切手とうろこ雲
    引き出しの中にかたつむり
    影の上にはふうりんそう
    太陽と彼の帆前船
    黒ん坊と彼の洋燈
    昔の絵の中に薔薇の花
    
    僕は ひとりで
          夜が ひろがる  (「唄」全行)

 

  まだまだ習作期を脱してはいないが、当時の詩的雰囲気がつたわってくるだろう。
中村真一郎は、『立原道造詩集』のあとがきに次のように書いている。(吉本隆明の「『四季』派の関係」から引用)

 「ぼくは、今まで、数人の詩人に会ったことがあるが、彼だけは、どの詩人とも異なって、まったく物語の中の詩人のやうにーー彼の書き続けた奇妙な抒情的小説の人物のやうにーー こちらをも、その独自な夢想の中へ、いや応なしに誘い込んでしまふよう   な、この世のものとは思われない何かを、周囲に匂いのやうに保っていた。」

 

  独自な夢想の中にさそうという不思議な力はどこからわいてきたのか。それは「追憶」という甘美な書き方にあると思われる。鮎川信夫は自らの著書の中で((「日本の抒情詩」)立原道造に触れて、彼の詩は〈純潔な美への期待〉によって〈現在という時を、何か、自分が未来にいてふりかえったような心持ちで描く〉といった詩的方法を記していた。それは現在を過去にいてふりむくように過去にダブらせて書く書き方が甘美さを誘うということであるのだろう。私の考えでは「懐かしい明日」への憧憬といった時間的な錯誤の方法が甘美へと転化される、この詩的方法を彼は何処で手に入れたのか、もっぱらそのことに関心が集まるのだが、結論はみだせないまま、堀辰雄との出会いによって、あの軽井沢の地を吹き抜けるみどりの風のように決して無縁ではないといった不思議な出会いに収斂していくのだ。

 

  堀辰雄が主唱した雑誌「四季」の同人は、三好達治によれば〈ほぼ交友関係になる雑然たる集合〉であったという。さらに「四季」派には〈一般に自然感傷的態度と理念的奈新抒情につこうとする傾きが見られた。同時に邦語に対する破壊的よりは開拓的建設的な努力がみられた。その傾向はやや古風に平穏にみえるものではあったが、当時にあっては他にこれに努める載らす意味に努めるものがほとんどなかったから、それは決して無意味な企てではなかっただろう。〉と記して、立原道造の詩を掲げている。


   夢はいつもかへって行つた 山の麓のさびしい村に
   水引草二風が立ち
   草ひばりのうたひやまない
   しづまりかへつた午さがりお林道を

   うららかに青い空には陽がてり 火山は眠ってゐた
       ーーそして私は
    見てきたものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
    だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた

       夢は そのさきには もういかない
   忘れつくしたことさえ 何もかも忘れ果てようとおもひ

   夢は 真冬の追憶おうちに凍るであらう
        そして それは戸をあけて 静寂のなかに
        星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう  (「のちのおもいに」全行)


  右の詩を掲げて、三好達治は〈当時の立原の詩である。彼の誤報語彙の繊細幽趣は前後に陽がなかった。〉さらに〈専らひたむきに無心にまた無鉄砲に身を投げかけた清純な高さ鋭さをもっていた。〉この詩形は後のマチネ・ポェチックの定型詩運動にもしかすると示唆を与えたもの〉であったかも知れないと記している。

 

 立原道造の文学の出発は、短歌であり、短歌における「感傷」にあった。雑誌「未成年」の編集後記には、立原道造が初めて編んだ歌集「ガラス窓から抄」より七、八年の後に書かれたものだが〈青春の感傷を美しき文学の沃野に思いっきり氾濫させることこそ ぼくらの誇りである。感傷を怖れる所に誠実真摯はない。〉と「感傷」をなんの憶面もなくさらけだす。このことは文学的志向の青年であればなおさらのこと、一応は敬遠するはずの言葉ではないかとおもうが、堂々と宣言する。それが立原道造の純粋さであろう。感傷の奧に秘められた知的な意味を考えるとき、真の感傷とは常に理性を伴わずしてありえないことを理解していたものの言ではないかとおもう。
 

  短歌では、山本祥彦のペンネームで各作品を発表。その頃愛誦していたのは石川啄木であったといわれている。私が最初に感じた「風景の造型」感もこの辺りに主な祖型があったものといえよう、
 ここで、大正初年に日本橋界隈に生まれた立原道造の幼年期を振り返ってみるとき、道造を言葉の世界に導いたとされる誘因はなんなのか、全集等の年譜を参照しながら簡略な年譜をえがいてみよう。

 

・大正三年(一九一四年)
      七月三十日、東京市日本橋区橘町に生まれる。(家業は荷造り用木箱の製造業)
・大正八年(一九一九年)  五歳
   八月二十二日父貞治郎死去。道造は家督を相続し、三代目の店主と成る。
・大正十二年(一九二三年)  九歳
   九月一日、関東大震災。橘町の家は焼失四、一家は千葉県東葛飾郡新川村の親     戚宅に批難。

 

・昭和二年(一九二七年) 十三歳
 四月、府立第三中学校に入学(芥川龍之介堀辰雄の母校である)この頃から文学書   を読み始め、
   雑誌部発行の「学友開始」に、「ある朝の出来事」を寄稿する。

 

・昭和三年(一九二八年)十四歳
   同級生金田敬の妹久子(小学校六年生)を識り、ひそかに思慕をよせるようになる。このころから盛んに短歌をつくるようになる。  
   

・昭和四年(一九二九年) 十五歳
 三月下旬、精神衰弱のため震災時の避難先であった千葉の親戚方に赴いて静養する。   中学三年の一学期は休学して、転地先の東葛飾地方の方言を採集・調査したり、蛙る   に取材した短歌や俳句を集めたりする。夏期休暇中は主として奥多摩の御岳ですごす。    口語自由短歌の創作、パステル画の制作が、ますます盛んになる。将来の進路につい て思い悩み、美術学校に進学することを希望するも、母親の反対にあい、のちに大学 で天文学を専攻するというように方針が定まる。そのため家業は弟の達夫がつぐことになる。

 

 立原道造のような夭逝の詩人にあっては以上のような略年表の中に既に自己形成のひな形をおおかたかたどっていると云っても過言ではないかもしれない。数年後の道造は大学での天文学ではなく建築学を学び、卒業後も建築事務所につとめるようになる。

(未)

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今日の名言-ゲーテ

「人間はどんな荒唐無稽な話でも、きいている内に自然とこれがあたりまえと思うようにできている。そして、それがすでにしっかりと根を下ろしてしまう。だからこれを削ったり抹殺したりすると、とんでもない目にあう。」

ゲーテ『若きウェルテルの悩み』70より)

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中原中也ノート②

 中也が三十歳の若さでなくなるのだが生前と死後に出版された詩集が二冊あるだけだが、どうしてこんなに昭和詩人の中では一流の抒情詩人と評価され読み継がれているのだろうか。私の単純な疑問は鮎川信夫の文章で(「日本の叙情詩」)でおおよそ納得できた。


  「『先日、中原中也が死んだ。夭折した彼が一流の抒情詩人であった。字引き片手に横文字詩集の影響なぞ受けて、詩人面をした馬鹿野郎どもからいろいろなことを言われ乍ら、日本人らしい立派な詩を沢山書いた。(後略)』と小林秀雄は中也が死んだときに書いています。まさか小林がそういったからというわけでもありますまいが、その後、文壇・詩壇の多くの人々が、中原を別格視、もしくは昭和初期に活躍した詩人の最右翼にあげています。」{それにしても詩人面した馬鹿野郎どもとは、ひどくないか)
  小林の中也を取り上げているその態度には詩人としては言葉に出せないある異和を感じているような感触を受け取る。「小林や、河上徹太郎が中原の死に対してだけ、深い理解しめしたのでしょうか。」鮎川はそれがたまたま仲間だったからその言動に共鳴し、偶然のように詩を説く鍵を持ち合わせていた仲間同士というよりも、人間中原中也をよく理解していたからという結論に至っている様子だが、鮎川は「中原中也を知らない人間が単に一冊の詩集『中原中也詩集』を読むとき非常にすぐれた少数の詩を除いては風変わりな作者のその場その場の思いつきに終わっているように感じられる詩が決して少なくない部分を示している」{黒田三郎の発言)ことも事実でしょう。」とそれとなく黒田の批判を指摘。

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 話は横道にそれそうだが、作業療養所では中原は松葉を掻き、貝殻を砕くという単純作業に従事しながら、薬物に対し手頼ってはいけないという健気さを見せる、いまが〈十年に一度あるかないかの詩歌の転換期〉とも主張している。入院当初は詩作は禁じられたいたが、それでも「雑記」には何編か記されていて、この時期の中也の心と精神の有り様を見ることが出来る。

 

    雨がふるぞえー病棟挽歌

 

  雨が、降るぞえ、雨が、降る。
  今宵は、雨が、降るぞえ、な。

  俺はかうして、病院に、
  しがねえ暮らしをしては、ゐる。

 

  雨が、降るぞえ、雨が、降る。
  今宵は、雨が、降るぞえ、な。
  らんたら、らららら、らららら、ら
  今宵は、雨が、降るぞえ、な。

 

  人の、声さえ、もうしない。
  まくらくらの、冬の、宵。
  隣の、牛も、もう寝たか。
  ちつとも、藁のさ、音もせぬ。

 

  と、何号かの病室で、
  硝子戸、開ける、音が、する。
  空気を、換へると、いふぢやんか。
  それとも、庭でも、見るぢやんか。

 

  いや、そんなこと、分るけえ。  
  いづれ、侘しい、患者の、こと、
  ただ、気まぐれと、いはば気まぐれ、
  庭でも、見ると、いはばいふまで。

 

  たんたら、らららら、雨が、降る。
  たんたら、らららら、雨が、降る。
  牛も、寝たよな、病院の、宵、
  たんたら、らららら、雨が、降る。 

 

   中也はおそらく狂気と狂気でないものの境界線を彷徨いつつあったとみるべきだろうか。愛児の文也の死後に、衝撃のあまり神経衰弱に陥ったということだが、もしかすると中也の深い悲しみは文也のなかに入り込んで同一化してしまったようにみえないだろうか。生きて帰らぬ我が子と同一化したその目でこの世を見つめると言う悲しみの局限化で「たんたら、らららら、」とオノマトペは意味の違った音をひろい上げ特別の感情をあらわしている。悲しいような切ないようなあるいはなぜかうれしくはずむような微妙な心の振動。精神病棟でのことばにならない感情は中也にしか表現できないものであるかもしれない。わずか三十年でこの世を去った中也は、世間がどう評価を下すかと言うことの前に肉親への愛の深さを甘受することの方にこそ大切な詩作の根拠があるように思える。(未)

明治大正新詩書概表(連載1回)

明治大正新詩書概表(新潮社版)を連載で掲載します。

 

維新前 1後夢路日記(中島廣足著)文政六年開板
                   「やよひのうた」「又同じ心の歌」の訳詩2編も載っている。

          2Loefden HeeR! (思いやつれし君?)(訳詩・勝海舟訳。

明治二年
    世界國書(口誦地理書)福沢諭吉著。 八月 慶応義塾発行。4冊。

明治三年
          西洋易知録(史書)川津祐之譯。
明治五年
          世界都路(史書) 仮名垣魯文著。和本。
          世界國書(口誦地理書)福沢諭吉著。  和綴じ小型三冊本。彩色世界国の口絵。                         

明治六年
    暗誦十詞(口誦地理書)福沢諭吉著。慶応義塾発行。
明治七年
         賛美歌。長崎メソヂスト協会発行。
明治十年
    詩編(聖書)聖書翻訳委員会訳。米国聖書会社発行。部分訳。仮とじ384頁
          万国歌書。 加藤熙編。 発行所不明。
明治十四年
          小学校歌集第一集。文部省音楽取調係編纂。大日本図書株式会社発行。 
          ほかに「中学歌集」が同社から出ている。                         (以下次回)

詩 東雲草

腐りかけの
果実の甘さが
しのぎをけずった
時代わすれの
死の勝利を、
読む

 

明治の
ストライキ節は
名古屋旭新地での
東雲楼を廃業に追いこんだ
娼妓の唄と、
知る

 

熊本説をまたいで
江東区豊洲
東雲橋をわたると
まぼろしの
東雲飛行場の跡地に
至る

 

露地から露地へ
鉢植えが
ところせましと咲き乱れていた
あれが東雲草だったか
昭和二十年代の上野の風景が
行き過ぎて

 

追憶は
蔓に絡まって
メチルアルコール
命を売った祖父だ
さりとは辛いね、
新聞の中のある人物を針でぶすぶす刺している

 

二〇一〇年の、天高く
雲がわき立つその向こうを
午後が滑り墜ちていく
白と黒の淡彩画に
とけ込んでみえにくい東雲草の
不運な棚の角度

 

去年の目安を掘り返す
東雲草のそばに
文鳥を埋め、
そのそばに四十雀も埋めた
浅い地中には
蚯蚓一匹いなかった

 

(以上)かなり前の作品です。この作品の入っている詩集があるはずです。

「最も大切な無意味」ではないかと思います。

三年前になくなった友人が好きだと云ってほめてくれた作品なので印象深く心に残っていました。その詩集から写したもの

伊東静雄ノート①

 伊東静雄の詩業が近代詩の流れの中でどのような位置におかれているのか、について私はしらない。で、始まるかなり古い文章(一九七九年三月発行・「ルパン詩通信」)がみつかったので、今回はそれをここに書き移したいとおもう。今年になって書いた詩人論で山村暮鳥①②、立原道造①~④、大手拓次①、の小さな論文に比べて、少し言葉も古いが、それほど考えは変わっていないようにも思えるので、あえて書きうつそうとおもう。そのまえに次の詩についてここに挿入しておきたい。

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  堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。 

 

 この水中花はわたしも夜店で見た記憶がぼんやり浮かんでくる。このことに関して菅谷規矩雄は「わが国の近代における「市井の詩」のさいごの残照でもあるだろう。伊東静雄が水中花に眼をとめたことは、ひとつには全く彼の個性的な必然であったと共に、他方では、作品《水中花》は、〈もの〉をモティーフにしている点で、伊東の詩作にあっては、ほとんど一度限りの例外的なできごとでもあった」としてこの詩は伊東の詩のすべてが縮されているとまで述べている。まずは、まえがきも含めて全編ここに引用しておきたい。

 

  水中花といって夏の夜店に子供達のために売る品がある。木のうすい〳〵削片を細く圧搾してつ   くったものだ。そのまゝでは何の変哲もないだが、一度水中に投ずればそれは赤青紫、色うつく      しいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコップの水のなかなどに凝としづまつてゐる。
   都会そだちの人のなかには瓦斯灯に照らしだされたあの人工の花の印象をわすれずにゐるひとも      あるだろう。

 

今歳水無月のなどかくは美しき。
 軒端を見れば息吹のごとく
 萌えいでにける釣りしのぶ。
忍ぶべき昔はなくて
 何をか吾の嘆きてあらむ。
六月の夜と昼のあはひに
 万象のこれは自ら光る明るさの時刻。
 遂ひ逢はざりし人の面影
一茎の葵の花の前に立て。
堪えがたければわれ空に投げうつ水中花。
金魚の影もそこに閃きつ。
 すべてのものは吾にむかひて
  死ねといふ、
  わが水無月のなどかくはうつくしき。

 

文字通りうつくしく虚空にひらく水中花のイメージは、絶品であろう。

 伊東静雄の詩集は『わがひとに与ふる哀歌』と『夏花』のうちの数編を頂点とし、戦争詩とみなされ
る七編の作品を含む『春のいそぎ』を詩的達成とは別に、底辺に置くとするおおかたの評言に異論はないとおもう。およそ昭和七年から一八年に至るその間の三つに詩集は、ゆうまでもなく戦争期と重なっており、その時代の精神の刻印を明瞭に認めることができる。
 伊東のことばでいえば〈意識の暗黒部との必死な格闘〉により一時代の抒情詩の可能性を極限へとのぼりつめたといっていい、そのゆるぎない諦念(=凝視)と情念(=拒絶)を貫く抒情への意志(=表現)によって、近代詩以降の日本の抒情詩に不滅の痕跡を残しているとも言い換えうる。

 

    わが死せむ美しき日のために
    連嶺の夢想よ! 汝が白雪を
  消さずあれ

 

にはじまり緊迫して機密度の高さで〈わが痛き夢〉をひとすじに歌い上げた「曠野の歌」の絶唱や、

 

とき偶に晴れ渡った日に
 老いた私の母が
 強ひられて故郷にかえって行ったと

 私の放浪する半身 愛される人
 私はお前に告げやらねばならぬ
 誰もがその願うところに
  住むむことが許されるのではない

 

の、一つの決意を凝縮した二行の詩句を持つ「晴れた日に」の透明な作品。ここでは誰もがその願うところに住むことが許されなければならない、という生地から遁走するかのように自らの〈生〉のねじれを現実世界と切り結ぶ苦い範囲を抱えて、なおそう言い切る拒絶の精神を歌い継ぎ、そしてさらには日本的な美意識と自然との融合、あるいは苦痛の合体をつきつめて歌う「八月の意志にすがりて」「水中花」へと。再び、伊東の言葉で言えば〈ゆきづまったところからやっとしぼりだすような詩〉の頂点をきわめたといってさしつかえないだろう。

 

  しかし伊東の〈行き詰まったところからやっとしぼり出すような詩〉が、「春のいそぎ」の挫折へ、その〈痛き夢〉は後退を強いられていくわけだが、戦争詩という状況下での飢にささくれながら、自らを鼓舞するように、けして手ばなさず書き続けた詩への愛着が次のような文面からも読みとれる。文学としては不毛であった日本浪漫派の詩人の中にあって誰よりも純粋にその思想を受け継いだと私にはおもえるし、それゆえにいっそうの無念さを感じとることもできるのである。(未完)

 

今日の名言

「文明とは人の身を安楽にして心を高尚にするをいうなり、衣食を𩜙(ゆたか)にして人品を貴(たっとく)くするをいうなり。」

福沢諭吉『文明論之戦略』(60-64より) f:id:tegusux:20170822163000j:plain