驚愕!透明なる幻影の言語をたずねてパート2

ことばの力をたずねながら、主に近・現代詩の旅にでたい~時には道を外れながら

今日で投稿十日目である。何を書こうか迷いながら書いてきたけど、やはりたいしたことがないらしく、読んで頂けないのは残念に思う。つまりおもしろくないということなんだろうとおもう。

 ところでいまは「立原道造」と平行して「中也中也」ノ-トを綴っていきたい。

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  このノートでは中原中也の晩年から(千葉寺の入院)書きはじめたので(①、②で)あらためて幼い頃の記憶をもとに書かれたという詩等と生い立ちについてみてゆきたいと思う。
数え年満二歳で山口に居た頃の素子である中也は「その年の暮れ頃よりのこと大概記憶ス」と、自信で4きしてもいるのだが、中原家の婆kにはには大きな柿のきがあったという。先の詩の「三歳の記憶」の初出は{文芸汎論」一九三六(昭和十一)年六月号。たぶん二九歳頃の作と推定されている。

       三歳の記憶

 縁側に意があたつてて、
 樹脂が五彩に眠る時、
 柿の木いっぽんある中庭は、                                              
 土は枇杷いろ はえが唸(な)く  

 稚厠の上に 抱えられてた、
 すると尻から 蛔虫(むし)が下がった。

 

 その蛔虫が、稚厠の浅瀬で動くので、
 動くので、私は驚愕(びっくり)しちまった。

 あゝあ、ほんとに怖かった
 なんだか不思議に怖かった、
 それでわたしはひとしきり
 ひと泣き泣いて やつたんだ。

 あゝ、怖かった怖かった
  ――部屋の中は ひっそりしてゐて、
 隣家は空に 舞ひ去つてゐた!
 隣家は空に 舞ひ去つてゐた!
                           ({在りし日の歌」所収より)

   一九〇七(明治四十)年十一月、生後六ヶ月の中也は母フクと祖母スエにつれられ、門司から船で大連へ向かい、汽車で父謙助の赴任地・旅順に赴くことになる。その時の記憶を題材にした随筆に「一つの境涯」があり詩編として先に掲げた{三歳の記憶」がある。一家がが山口に戻った頃(明治四十一年八月~翌三月)二歳に満たない中也の記憶がここにはうたわれている。中也が二十八、九歳の頃に書かれたものであろう、といわれている。
 ここに「一つの境涯」の抜粋をかきうつしていきたい。

    一つの境涯
          =世の母びと達に捧ぐ==

 寒い、乾燥した砂混じりの風が吹いている。湾も港市――其の家々も、ただ一葉にどす黒組得てゐる。沖は、あまりに希薄に見える其処では何もかもが、たちどころに発散してしまふやうに思はれる。その沖の可なり此方と思はれるあたりに、海ノン中から増すと画の沿いてゐる。そのマストは黒い、それも煤煙のやうに黒い、――黒い、黒い、黒い……それこそはあの有名な旅順閉塞隊が、沈めた船のマストなのである。
(中略)つまり私は当時猶赤ン坊であつた。私の此の眼も、慥かにに一度は、其のマストを映したことであったろうが、もとより記憶してゐる由もない。それなのに何時も私の心にはキチッと決つた風景が浮かぶところをみれば、或ひは潜在記憶とでもいふものがあつて、それが然らしめるのではないかと、埒もないことを思つてみてゐるのである。
(中略)
「あんよが出来出す一寸前頃は、一寸の油断もならないので、」行李の蓋底におしめを沢山敷いて、そのなかに入れといたものだが、するとそのおしめを一枚々々、行李の外へ出して、それを全部だし終わると、今度は又それを1枚々行李の中へ入れたものだよ。」――さう云われてみれば今でも自分のそんな癖はあつてなにかそれはexchangeといふことのおもしろさだと思ふのだが、それは今私も子供が、ガラスのこちらでバアといつて母親を見て、直ぐ次にはガラスのあちら側からバアといつて笑い興ずる、

 

そのことにも思い合わされて自分には面白いことなのだが、それは何か、科学的といふよりも物理的な気質の或物を現してゐまいか。その後四つ五つとなると、私は大概の玩具よりも遙かに釘だの戸車だの卦算だのを愛するやうになるのだが、それは何かうまく云へないまでも大変我乍ら好もしいことのやうに思はれてならない。何かそれは、現実的な理想家気質――とでもいふやうなものはないのか。
 (中略)
    左を苦境時代のはじめに用ふ事
       ほんとに悲しい日を持った人々は、その日のことが語れない。語りたくなのではない。語ろううにもどうにも手の附けようがないから、ついには語りたくなくなりもするのである。
 (未発表津遺筆「一つの境涯」より抜粋、推定制作時期は一級算五年後半ごろ)

 

 

 中也は、生まれて半年後には旅順に渡り柳樹屯へ移っ後、山口に半年ほどいて広島へ行く。二歳になるすこし前のことである。軍医である父謙助は広島の病院付きになったからである。
 「その年の暮れの頃よりのこと大概記憶す」と後年語っている。記憶力のいい人だと思うが、先に記した詩編では、「なんだか怖かったと」当時を振り返っている。
一九一一(明治四十四)年四歳、で広島の女学校付属幼稚園(現広島女学院ゲーンズ幼稚園)に入園。
「幼稚園では、中也はみんなから好かれたようです」と母フクは語っている。翌年、父健助の転任によって金澤にひっこすことになったとき、幼稚園で別れを惜しみ、先生や友達とともに鳴いたという感受性の強い子だったのだろうか。金沢に向かう途中汽車のなかでも「広島の幼稚園は良かったね」と中也は母フクに語っている。「あのころ、中也はほんとうによくいうことを聞く、優しい子供でした。子供とは思えんほど、ききわけがよかったんです。」


 一九一三(大正二)年六歳、北陸女学校付属第一幼稚園(現北陸学院短期大学付属第一幼稚園に入園。通園路の途中にある犀川が、雪解けで水勢が増したときには「橋が落ちる、橋が落ちる」といって中也は恐がり、橋を渡らず回り道をしたという。
 又友達と遊んでいてよその家家の窓ガラスを壊ししまったとき、ガラスを弁償してくれるよう母葉に懇願。{悪かったよ、」とえらい気をもんで」いたというエピソードがる。母は「物が気になる性質だったんですよ}と語っている。そして中也は広島・金沢時代に、山陰の弟の鬼にに成る。いくつかのエピソードから記憶力のいい、心の優しい子だった事がうかがいしれるだろう。


亜郎(中也三歳の時)、恰三(四歳の時)、思郎((六歳の時)が誕生。その兄弟達は「父は軍隊式、母は小笠原流、実母母スエは寺子屋式」でしつけられたという。一方、父謙助はよく子供らを連れて映画などを見に出かけている。そのことは「金沢の思ひ出」にもつづられている。詩編「サーカス」のモチーフになっているという見方もある。

 

明治大正身新詩書概表3

明治十九年

 新体詩歌全集(創作及び翻訳) 竹内節編。4月、鶴声者発行。

 纂票新体詩(詞華集)竹内隆信編。九月、泰陽堂発行。

 新体詞華少年姿(詩集) 山田美妙著。十月、香雲書房発行。

 唱歌(書生歌)大和田建樹著。

 雅歌(聖書)聖書翻訳委員譯。大英國聖書社発行。部分訳である。

 新体詞選(詞華集)山田美妙編。八月、春雲書屋発行。紅葉、美妙、九華の合著、十          

  遍を福も、巻頭「書生の歌」

 新体詩学必携(作法書)新体詩学研究か本部編。

 

明治二十年

 通俗佳人之奇遇(小説)大東萍士(土田泰蔵)著。二月、鶴声社発行。新対し数編を収

 伊良郎女(雑誌) 山田美妙編。七月、第一号発行詩歌を重視せる明治初代婦人雑誌。

 明治新体詩歌選(詞華集)佐藤勇治編。四月、大阪津田氏発行。

 厭世史談断逢奇縁 小宮桂介譯。五月、風文館発行。エルクマン、シャトリアンの小 

 説之訳本。四巻本。第一巻頭に 他国国家の訳詞を掲げてある。

 芳草花園春の曙(小説)花の舎狂風著。五月発行。仏国革命を栄治たつ新体詩を収む。

 幼稚園唱歌集。十二月、音楽学校発行。

 詩人の春(詞華集)大和田建樹編。 十二月文政堂発行。

 ハロールド物語(小説)磯野徳三郎譯。文誠堂発行。リットン原著。大和田建樹の韻文 

  の序あり。

 自由詞林(詩集)植木枝盛著。高知発行。三遍六章を収む。

 新体詩学歌(詩集)詩学研究会。

 明治新体詩歌選(詞華集)碌碌庵居士編。大阪、吉岡實文館発行。

 批評の鏡弥兒頓論(批評) 吉田直太郎譯 六月、富山帽発行。

 

 

 

非人称の夏

むろん死後にも悩みはつきまとう
渡し船などはみえず
幻の夏の砂浜で、誰かのよぶ声がするが
水先案内の超老人もみえず
現世にひきかえすわけにもいかない
(誰かが石の頭で釘を打つ…この世の別れに音も凍えていたか)
比喩のようにふりかえる
あなたに対するつよがりは
あの夏の終わりからはじまっていた
いわゆる運命的な無言の戦いを強いられて
駆けのぼる水の階段をふみはずし
激しく海面に叩きつけられる
(そうだ。いま、永劫にわたってだまされはじめるのだ)*
けれども、
奇妙に明るい死後の水府へいざなう
もうひとりのぼくを浸蝕する、日本海沿岸
非人称の波間で
風にゆれる縄梯子の罠にはみむきもせず
すべてを無意識のせいにして待つことにする
狡猾な現世に背をむけた
妙なる調べに涙をぬぐいながら
(哄笑の波に晒されていた…空想する時空の旅に終わりはない)

            

  *埴谷雄高『闇のなかの黒い馬』の「《私〉のいない夢」から引用。

悲鳴

はっときずくと
安楽椅子にもたれたまま
私にもどる
一瞬の闇、いかにも
甘い記憶が拭い去られるとは信じがたい
無言の時の欠落に
魅入られていた
くらくらするような喪失感に
どことなく
酔いしれていたわけではなかった


部屋の色も匂いも
かわりもなく
このまま向こう側の
見えない意味の漂流という
観念にあまえながら
見ようとする空しい意識の切迫に
切なさを滲ませて
おそらく無駄な空気感を突き抜けてく
ここにはいない人のことが
よみがえるのだろう


瞬間の
まぶしい午後のひかりのなかで
おそらく死の儀式が
ひっそりとゆきすぎるのを
みおくるために
おきあがろうとする
異色な彼の疲れ切ったゆらめきは
影もしらない
反目する安楽椅子に抱かれたままの恐怖、闇の手か?
青ざめた悲鳴が天井を走る

 

 

 

影の爪 (現代詩)

その影は
人の重さを忠実に
支え、
なぞり、
自らの存在は主張しない
むろん、影はいのちの明暗を
あばきたてること以前に
見えないものの
ありかを焼きつけてはなさない

 


その影があって息づいている
世界の単純な仕組みは
なにより悲鳴の的になりやすく
あえて見ない、
見ようとしても見えない影の
悲哀を色濃くうつす

 


夏の影、
灼熱の車道
おもいがけない遠い暴動の
影の乱調か
全世界のはての果てまでも獰猛に殺戮をくりかえす
限りなくつづく手足のつめの血の
跡、
の影まで

 


自傷的な行動を
支え、
なぞり、磔ではない
圧倒的に死者を見送る花火の影よ
都市が泣く
生きて別れる闇深く、分かるひとはわかる
肉親たちの骨をばらまく
影の影まで

 

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実感という資質-吉浦豊久詩集『或いは、贋作のほとりに佇む十七夜』について

 

詩とエッセイと写真が渾然一体となったムック形式の詩集は近頃めずらしい。そのうえこの吉浦豊久詩集は、前詩集 『或る男』から十九年ぶりの第三詩集であることに、感慨深いものがある。かつて菓子職人として富山市内で菓子店を構えていたころからの詩的出発を知っている私にはこのたびの詩集でも職人的な手作りの楽しさを充分に受け止めることができたのf:id:tegusux:20170828125250j:plainも、言葉がいっそう深まりをもって迫ってきたからにちがいない。

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 京都周辺に関わる作品を十七夜に編集して詩と写真とエッセイを組み合わせたところの理由が、タイトルに現れているように想われる。それは「或いは、贋作…」という言葉に従来の詩集に形式とは異質なものとして呈示する詩人の反転した意識を読み取ることはたやすいかもしれない。だが、彼の詩意識はあくまでも自分が面白くなければ詩ではないといった所がある。それは理屈ではない実感として詩を感じとってきた彼の資質といっても良いだろう。むろんこの場合の資質とは彼自身の個的な才能のことである。  本集のあとがきで「現代詩はどの辺にいるのか。一寸違った角度から問い直して見た。 一つ言えることは、詩は教わるものではなく、感じるものである、と。」そう書く彼にとって詩とは、実感として受け止めたものを、その雰囲気を大切に言語化する、あるいはフイクションとして組織化する。だから彼の作品はあらゆる意味から自由であるといえないだろうか。意味の深みにはまることなく自らの感性の震えを感動といいかえてもいいが、そのまま雰囲気としてつたえることに集中できるのではないかとおもう。

 

 暗い柊の
 氷雨
 ビショビショの滲んで

 何を待つのか
    
渡月橋の夕暮れて
琴聴茶屋で
底冷えした茶屋の女
の耳
その耳のような桜餅を秘蔵しているに違いない

塩漬けされた伊豆長岡在の桜葉の樽が
桂川のせせらぎを聞いている
そばに ゴム手袋一足       (「塩付けされた耳」全行)


 この詩のように作者は「渡月橋の夕暮れ」の「茶屋の女の耳」を見ながら「桜餅」を連想する。彼の第一詩集が『桜餅のある風景』であったが、ここでの「桜餅は」は、「耳のような桜餅」を「底冷えの茶屋の女」が秘蔵しているということでいきなり薄桃色の餅が女の秘書の意味に変わる。どこか儚げな女性へのエロスが匂い立つ。さらに次の連では「桜餅」からの連想が塩漬けの樽となって「桂川のせせらぎをきいている」作者の姿はどこにもみえず「そばに ゴム手袋一足」 がおなじく桂川のせせらぎをきいている。この詩の中心が、かつての象徴詩のようにぼやけて見えるのは、あえて意味に収斂されない作者の心の内を反映している、ということだろう。事実かどうかは別に一枚の絵 のような記憶の再現ともとれる。この曖昧さは記憶自体の曖昧さとかんがえれば、彼はなにより実感を大切に詩として現そうとしたその切実なモチーフを、読者として受け止めることでこの詩が成立すると考えられる。

 


 菅谷規矩雄は八〇年代に書いた評論のなかに近代詩の抒情詩人で第一級に掲げていたのが室生犀星だが、その犀星が一番に標榜した「感情」の表出ということをふと思い出させた。いささか古い詩の表現と同じといいたいのではない。むろん資質も全く違うだろうし、何よりも吉浦さんの中には時代を超越した詩の世界が存在しているということかもしれないと思う。最初にも書いたが彼はまず自分の実感がそのときの感情が、第一なのだ。それをいかにつたえるかに彼の詩の方法がかかっている。また彼はよく旅に出かける。おそらく全国くまなく旅をしているかもしれない。歴史的にも名のある古い町がすきだという。旅にでてその場所でひとり風にふかれながら詩作にふけることもあるのだろうか。古い建物や郷土玩具や郷土料理、道ばたに咲く名も無い草花にまで愛しくめでる心の持ち主であることは詩人としては当然かもしれないが、私のように余り過去を振り向かないというか懐古的な趣味が乏しいものには、彼のを旅にかりたてる本当の意味が理解できないでいたように思う。本集にも多くの旅の詩が納められてある。またエッセイを読めば旅の喜びがよくわかる。なかでも「播州平福の町」は秀作だろう。

 

わたしは またいきたいと思った
 平福の麦ころがしの土蔵のつづく道を
 いりいりと 行き詰まってしまったのだ
 何ももいやになってしまった

  船宿の
平入り半二階屋の
 因幡街道の
作用川を下る高瀬舟
見える窓
      
人はなやみ
 病み
 落ちて行く
      
  おおう
  道のはずれのたんぽぽよ
 芽吹きだち
 せせらぎのバイクの音の
 小川の風のちぢれよ
  少年の武蔵の
を/わたしの疲れた影を/コーラーの空き缶の凹んだ影を


 〔略)       

 

行く気山並み越え/川を分け入り/弓なりの川岸に続く平福の蔵たち
百年も二百年もたった漆喰のはげた土蔵たちよ//私は 行きたいと思う/春の日に       (「播州平福の町」全行)
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 「人はなやみ/病み/落ちていく」という悲しみからの逃避ではない。自己慰撫だけならば旅に出な
くても解決する事ができそうである。だが、ひとり旅に出て一層、人間の哀しみの本質にふれることができる。と、いった発見がもしかすると彼を旅に駆り立てる切実な理由のひとつではないか。この詩を通じて彼の詩的根拠の深さを見落としてはならないと思う。
 

むろん人生は旅のメタファーでもあるが、旅情という人生の哀歓もあろう。そうおもえば吉浦豊久は現在稀有な抒情詩人であるかもしれない。もうひとつ彼の心を揺さぶる掛け軸についてはふれることができなかったが、掛け軸の収集は単に所有欲というよりもおそらく亡父の遺伝子が騒ぐのでないだろうか。実際、掛け軸をインターネットで購入したり古物商をめぐて手に入れた数は、亡父のものをゆうに超えたらしい。彼の熱中度は一般的な骨董趣味といった言葉ではいいあらわせない何かがあるのだろう。それと現代詩との関わりについてはまた別の文脈が必要だが、贋作もまた楽しいという彼の資質だけは本物である。〔了〕                                         

 

われ発見す、夢の島!ー瀧口修造「星と砂とー日録抄」を読む

 

 古書店で見付けたぼくにとっては、まさに夢の本であった。ここには、浅草と新宿というふたつの街が、夢みる現場のように現れる。銀座や渋谷ではない、まして六本木や赤坂、麻布界ではない。だが偶然のようにふたつの限定されたこの場所は、あたかも取りかえしのつかない未生の夢が降る街であるかのように、作者の創造の現場をうつしだすからだろうか。胸躍らせて頁をめくった。

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そこには「星と砂と」いう物質の夢。鳥や植物という儚い命がかがやく夢。あるいは「現れる自然、消える自然」の中で生きぬく人間たち。おそらく私たちの綱渡りのような「存在証明と不在証明」の接線をみつめながら、その可能性を問うのだけれど。「あの頃は、カミナリ・オロシが空へ舞いあがったものだ」と思わせる仲見世での懐かしい夢から覚めて、いきなり、太平洋戦争でついに還らなかった若い画家の大塚耕一を偲びながら「彼はなぜ最後に、淡いタッチで、誰も乗らない自転車など描いたのか。」と、書きしるすその哀悼が胸にしみる。

 

この詩集の中の作者の湿り気のない乾いた言葉はどこからくるのか。肯定も否定もせず、ただ中間項であろうとするかのような留保という思惟による不断の思索。さらに、星も砂もたんなる物質ではないもう一つの輝かしい生命体でもあるかのようにその語源を科学的に探ろうとする。言葉に絶体の純度を求めてやまないの意志の強さあるいは脆さが光源化するのだ。

 

 

「星または石」というこの言葉の強度な透明感は「肉眼の夢」ではけっして見えないものかもしれない。地上に墜ちてくる鳩や雀を目撃することはあっても、それはまれであり「彼らは、どこへ、みずから姿を消すのか。自らの死を隠すかのように」確かに自然の死の姿は私たちには見えない、まるでだれかの手によって隠されているかのようにだ。あるいは「枯葉は植物の部分死か! 」この一行の向こうに自然の摂理を超えて見えてくるものがあるのだろうか。

 

「時間を領有することのできぬ人間が空間を領有することができるか?」という問は、なぜか問のままである。はじめから答を求めない問。

 

それは、かつて世界の時空間の中で沈黙を強いられた自由という束縛の恐怖から永遠に逃れられないといった悲しみのせいかもしれない。作者が「新宿の地下道で、与論島のスター・サンド(星砂)といって、学生風の男から、一摘みの白っぽい砂らしいものを買った。私はこうしたものの存在も名前すら知らなかった。」と、

 


帰宅して半信半疑ながら星型の微粒を顕微鏡で見ておどろく。「この骨片のような星形」の存在に無言の衝撃を受ける。そして、そこから無限のように思惟が発展していくのだ。「星砂」はその形状や存在について訪問客のたれかれとなく話題にするが、確かなことは分からず、意を決して科学博物館に訊く。「これは海中に住む原生動物の一腫で、有孔虫目で、単細胞のアメーバの類の残骸、という」その正体が分かる。ぼくもアメーバの残骸には驚いた。

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ところで、「星砂」というのは「生物学的事実から離れていわば抽象的俗名なのである」といった発見が古生代以前から生存している生物であることへの驚きと尊厳めいたものを感じさせる。

この連想から、星が五の鋭角もつ、ひとでの五本の手のように。人の手を想起させる理由を問ながら人は己の掌に星をよむ。まるでこの世に生まれたことの意味を問うかのようであり、その運命をかぎわけようとする不安な意志のようにも見え、文字の最も古い範疇にはいるシュメールの初期の楔方文字に原型があったことをたしかめる。印刷のアステリスク(*)は、その果ての痕跡かと、思う。

 

だから(*)は、天体の興亡を象徴したものにすぎず、魔術や幾何学とのどのような抱合いであったか。けれども作者は「符号や象徴の迷路に好んで踏み込むのは私の本意ではない。ただ発生の現場に引きつけられるだけである」と告げるのみである。

 


作者は言葉を記述する行為において同時に言葉を殺戮するという、おおきな矛盾と背理のなかで生きぬいてきたのであったか。「人間は砂になれるか。」確かに「人砂」とはいわない。人の砂とはいえても。「人砂」というには言葉の歳月があまりにもたりないのではないか。

 

骨を粉々に砕き、風雪に晒したところで、星砂とは違って、きっと、膨大な歳月の光と影の交接が必要なのだ。作者の言語活動は、だからどこかに闘うものの知的な輝きが、不断のまぶしさが、現前せしめるゆいつの手だてとなるのだろう。


あらためてこの古書の中で、ことばがことばで復讐することの不可能な状態、絶体への志向を秘めて。なにものかを受け止めることになる。それはどこか孤独の豊かさを秘めて。悲傷のイメージから逃れることができない。(了)           

 

 

 

 

立原道造ノート②-習作期の短歌のころ

(二)     
 立原道造が四季派の詩人と喚ばれることもあるがこの系統は、鮎川信夫によれば「永年にわたり伝統詩によってつちかわれた私的情操を基底としたものだが、本質的な隠遁主義だとおもう。」隠遁というのは俗世界から逃れるという意味もあるのだろうが、「なるべく『人間臭くない』方向、あるいは『人工的文明から少しでも遠ざかった』方向へと向かっていこうとする傾きがみられる。」ということだが、一般にいわれる詩の純粋性の譬えか、それとも時代の風の影響によるものだったのだろうか。ここに四季派といわれた詩人の作品をならべてみる。この詩に至るまでの立原道造の詩的出発が短歌であったことからはじめたい。

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   あはれな 僕の魂よ
   おそい秋の午後には 行くがいい
   建築と建築とが さびしい影を曳いていゐる
   人どほりのすくない 裏道を          〈立原道造「晩秋」より〉

   高い欅軒を見上げる
   細かい枝々は空を透き みずのやうに揺れている

   断崖から海をのぞくやうだ
   高い一本の欅を見上げ 私は地球玉に逆さにたつている 〈田中冬二「欅」より〉

       山青し巷の空
         かの青き山にゆかばや
   
       朝夕は雲にかくろひ
       かの山に住める人々                            (三好達治「山青し」より)
   
 四季派の詩意識は、海や山、田園といった空間的にも自然のほうに傾き時間的には過去の方に逃げ込むような特徴を見ることができる。過ぎ去ったものへの愛着、郷愁、ときには羨望となって、現在形で書かれているが、過去への風景が現前する形式で書かれている。


 立原道造が第一高校に入学(昭和六年)一年間は寮生活を送るが、苦痛で、二年目からは自宅から通学する。その頃文芸部に属しながら一高ローマ時の会員ともなる、中学三年の頃に国語教師に伴われて、北原白秋に会い、詩稿を示している。この頃また詩歌にたいする意思がが高まり前田夕暮の主催する交互短歌詩「詩歌」に四月号から翌六月までほとんど毎号、山本祥彦の筆名で短歌を発表。石川啄木の『一握の砂』『悲しき玩具』を愛読し、模倣するものでもあった。と同時に天体観測にも夢中になっていた。
 前田夕暮の短歌は、口語歌の先駆者であり、どちらかといえば物質的存在感に訴える技法があったといわれている。

 

向日葵は金幅油を見にあびてゆらりと高し日のちひささよ  (『生くる日に』より)
自然がずんずん体のなかを通過する――山、山、山(自由律第一歌集『水源地帯』より)

 

両方の短歌には形式上は大きな違いがあるが、自然の物質的存在感に訴えかける技法には変わりがないだろう。この前田夕暮の短歌から学んだものもあったにちがいない。
 しかし、石川啄木の三行分かち書きの短歌を模倣することから後の詩作への道をあるきはじめた。当時は啄木に共鳴した若者は多いと思うが、立原道造の共鳴現象は、たんなる共鳴というよりは本人の内面に反響する資質的な同致というものがあったからだろう。大多数の読者の生活経験を超えた文学的な共生感を生み出したもの、それは短歌的抒情というほかない日本特有の伝統的言語規範といえるだろう。
   
    いたく錆しピストル出でし
    砂山の
    砂を指もて堀りてありしに

 

  啄木の右の短歌を本歌どりした石原裕次郎の「錆びたナイフ」は有名な譬えでもある。この例をもちだすまでもなく、同時代的には「啄木の短歌を媒介とする文学的空間の磁場が形成されたのである」「啄木の短歌が多数の読者を獲得したのは、それが日本語の言語共同体に深く根ざしていたためであって、その逆ではない」(郷原宏立原道造』より)いったん短歌にふれた道造も当然のめり込んでいったのも以上の理由からといってもまちがいないであろう。

 

 昭和三年から翌年にかけて、「硝子窓から抄」「葛飾集」「葛飾集以後」の歌ノートを三種を残している。

    そらぞらしい楽しさでもいいや。もうすっかりうれしさうに口笛吹いてみた
     ひら〳〵光る草の葉、積みきって唇にあてた。撫子の花が黙つてみていた

  右の詩は少年期の初恋への葬送の歌であるが、自ら立ち直ろうとして打ち立てた虚無的な碑でもある。
また山本という筆名が初恋の少女の名前からとったものということである、ともかく儚く終わったものであったという過去の評伝からの引用はここでは省きたいが、この短歌にいたるまえの歌をかかげておきたい。

 

あのとき、ちょっぴり笑った顔が感傷をたきつけるのだ、白い歯並び!

小さな白板のような歯並びがちょっぴり見えたんで、僕は今日も淋しい

「お修身」があなたに手紙を受け入れさせなかった、僕は悪い人ださうです

朝の電車の隅で会釈し返したあなた、其時の顔が其のまゝ僕をあざける

何か思いつめてた――ばかなばかな僕、今草にねて空を見ている

 

 「詩歌」(昭和六年発行)に新人作新として掲載されたうちの短歌五首である。ある少女との失恋の直後の歌である。このように活字化し自己を客観化することで自意識を少しは克服したことがうかがえよう。


 「第一高等学校校友会雑誌」三三五号に「青空」を発表。友人と同人誌「こかげ」創刊、四号で廃刊。夏休みには自宅にこもり、読書にふける、このころから三好達治の詩集の影響で四行詩を書き始める。


 なぜ短歌から詩へと移り変わり、というか詩に戻ったという方がっただしいかもしれないが、啄木に遭遇した体験はナルシシズムであり、青年期特有の自己顕示欲と、逃亡へのあこがれ、というきめつけに疑問を投げかけるわけではないが、虚弱な体質であったことと、建築家の勉強についての想像力は詩作に何の影も落としていないのだろうか。当時、習作期の短歌をみても、単なる青年期特有の感傷、青春の感傷ではないかといえそうだ。特に感傷に新たな意味をみつけることはない。たとえば「〈感傷〉とは単なる甘いったるさを脱して 冬の日に凍える氷柱のようにな厳しい鋭角。それは、感覚の奥に秘められた知的意味。真の感傷には 理知的な培いをうながすものが多くありはしないか。」(大城信栄)と、〈感傷〉を賛美のするかのような思考の衣につつむ必要など要しない、そんな特別の意味を付加することはないともうが、啄木の短歌のように当時の読者に受け入れられたということも〈感傷〉だったと思うと、複雑である。
 

夭逝詩人につきまとう幻影が短歌の世界での感傷であったのかもかもしれない。だがあえて唐突ながらここで、キルケゴールのことばを記しておきたい。
「青年が人生並に自己自身について並外れた希望をだいているときは、彼は幻影のうちにある。その代わり老人は老人でその青年時代を想起する仕方でしばしば幻影にとらえられているのを我々は見るのである」(『死に至る病』より)

 

短歌を始めた頃とは限らないが、道造も短歌に希望を見いだしていた頃は幻影の中にいたということがいえるし、私もいままた幻影の中にいても不思議ではないといえるだろか。  

 何事かうれしきことの
 ある如く歩きて見き。
 淋しさのためか。                                      (「硝子窓から抄」)

 

我が息はさびし。
 はためく草の葉よりさびし。
   涙ぐむ                                                (「葛飾集」)

 

 をとめあり
麻雀の牌もて座り居し
  かの姿をば我は忘れず                                  (「葛飾集」)

 

右の短歌は習作のそれぞれのノートから引いたいたものだが、いずれにも「我」が書かれている。この「我」は石川啄木の短歌から受けとったものであり、近代から取り残されたような存在の「我」である。近代と「我」に対する違和については次の郷原宏の優れた指摘がある。

    「その歌の基本的な情動が、近代に対する違和とそこからの自己救済にあったかぎり、       それは結局のところ「我を愛する歌」のかたちととらざるをえなかった。歌の中で彼       らは彼らの「我」を愛した。あいされることとで、「我」は彼らの白鳥の歌になった。       そして自己愛の純一さが多くの読者を引きつけた。言い換えれば、彼らはひたすらに      「我」を愛することによって、多くの読者に愛される存在になった。これはおそらく        近代詩史の大きな逆説のひとつである。」

  彼らが「我」のほかに信じるものがなかったからこそ「我」を歌い「我」に執着せざるを得なかったはずであろう。近代への違和が彼らに「我」を作り出したのである。それは歌の中でしか存在しえないものであった。つまり歌の中に封じこめられてはじめて詩人の自己表現の核になる、といえるだろう。

  「我」と歌を歌う私との乖離。読者にははかりしれないこの奇妙か関係は、短歌という詩型がもつ現実における逆説として受け止めることになる。立原道造の出発が青春の素直な感情の吐露であるという短歌的抒情の世界にはまった、という言い方には素直にうなずけないが、かつて菅谷喜矩雄は「現代詩読本」のなかで立原道造の詩について「何よりもことばが不安であり、詩が、ことばの不安にたえずさらされているごとくである。」と、してさらにはその詩のスタイルは、錯叙とでもよぶべき語法をひとつの個性として持っている。と云うわけである。たとえば、 
                                      
        光っていた……何か かなしくて         
    空はしんと澄んでいた どぎつく                (「魂を沈める歌」より)

  立原の詩の骨格ともゆうべき実体が、この錯叙の語法なのだと菅谷は論述している。この錯叙の語法は、私は短歌を通してえたものと主張したいのだが直感であって論理的にはまとめられえない。(未)

 

 

 

 

 

 

 

静かな驟雨〔現代詩)

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静かな驟雨

 

 

 かつてのあこがれが
色を失い、
声を失い、
歌にもならない風景の
塵の山を思い描く
肋骨あたりにぶらさがる
食い散らかした西瓜の種で
叱られた日が甦る空想のぬけがらか
ハンノキの幹にしがみついていた
仲間たち


甦るぬけがらの熱い庭にも
驟雨が通る
昼下がりは
胡瓜のような模型の舟に
こころの浮力の重さがかさなり
扁平足のはだしのまま
ありもしない無様な記憶を踏み散らかす
青空を乱読する
拠り所などなにもなかったが


かつて推理小説にのめり込み
昆虫針で停めていた怪しい幻影が
色を失い、
声を失い、
まぼろしのどぶろくの苦さに変わる
夢の団地に乱読の灯は消え
―老けてしまったなぁ、はあはあ息をはぜませ
仲間たちは
確実に迫り来る恐怖の予感に靡き
午後の蝉時雨とか云うらしい
耳に痛いどぶろく
頭から浴びている  屋台がある

 

空所〔現代詩)

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空所

 

住処を逐われた野の鳥は
孤の恐怖におびえ
記憶の淵で
天変地異と言う動機を
ひそかにねがう
朝は眠りの余白のなか
もう少しベッドの中でまどろんでいたい
口のないひとの言葉も、
母との日々のつながりのなかでだけ
無意味な優しさと
思いがけない凶暴性を秘めて
野末の果ての末路に惑う(…黄泉の入り口?
書くことは自分のためより
他者への幸せを願うことのほうが
遙かに多い理由などなにもない
野の鳥の囀りのような
古代人の悲鳴のかけらも
あの空に近い
立山のわずかな氷河の中に閉じこもる
言葉にならない幸運のかけらは
無音の時代の憧れを聴く

 

*少し前に書いた作品です。今度の詩集には加えようとおもっています。

よかったら、感想など聞かせていただくとうれしい。